本日の鳥飯。
■□■伝習隊メモ
↓の補足っぽく。(自分用の備忘録、主として野口武彦『幕末歩兵隊』(中公新書)より)
幕府の歩兵部隊は、文久の軍制改革によって生まれたものです(1862年「兵賦令」)。文久三年2月に西の丸下に歩兵屯所が設置され、同時期に大手前屯所が開設。5月には小川町、7月には三番町と、立て続けに計4つの歩兵屯所ができました。どこも5千人規模の収容能力を持ち、都合二万人までは対応できる見込みだった――と、『嘉永明治年間禄』に記されているがちょっと誇張気味かもしれない、と野口氏はいい、慶応年間の4屯所の歩兵総数として6,381名という数字を出しています。
屯所は、大名や旗本の屋敷を潰して作られ、一小隊40人を単位としてひとつの長屋(兵舎)に詰めこみました。兵賦は賄い付きで、麹町八丁目の伊勢屋八兵衛と、日本橋釘店の伊勢屋平兵衛が給食を請け負ったそうです。お仕着せの紺木綿の筒袖にチョッキを羽織り、紺木綿のだんぶくろ(正式にはシャモ袴といったらしい。要するにズボン)、銃剣用の真鍮の脇差が支給されましたが、この真鍮の脇差も大量生産で、柳原請負地の山田屋善兵衛と本所亀沢町の山田屋金兵衛が一手に引き受けたとか。(それぞれ屋号同じだけど別の人…だよね…?)
請負価格は一本五両、うち三両二分が手取りで、一両二分は係の役人へばら撒かれたとのこと。軍需産業における癒着の始まりです。
屯所毎に合印が決められていて、西の丸下は丸に縦線一本、大手前は丸に縦線二本、三番町は同様に三本、小川町が四本。これを記章にして袖口につけました。文久三年7月から、ひと月に6日ずつと決められた休日制度が導入され、ドンタクと呼ばれます。オランダ語の"zontag(日曜日)"が語源ですが、これが今でも残っていて、午前中で終ることを「半ドン」と呼びますね。
調練は、最初はオランダ式で行われたらしい。元治元年に圭介が出した『歩兵練法』は、ミニエー銃を制式銃に採用した1861年式オランダ陸軍教練書改訂版の翻訳だといわれています。たとえば「直れ」という号令だとか、行進は左足から始める、とか、朝礼や体育でおなじみの決まりは、このときに始まり、やがて明治の『歩兵操典』に組みこまれていったそうです。
ところが、慶応元年には『英国歩兵練法』という本が発刊されています(古屋佐久左衛門の『英国歩兵操典』のことか?)。元治元年頃から、横浜に駐留しているイギリス軍から直接伝習を受けてしまえという動きが陸軍内で起こったようです。というのも、歩兵の伝習が進む一方で、現場で指揮を取れる士官・下士官クラスが大幅に不足していたからで、陸軍奉行(陸軍中将に相当)以下、奉行並、歩兵奉行(少将)、歩兵頭(大佐、一連隊を指揮)、歩兵頭並(中佐、一大隊を指揮)、歩兵指図役頭取(大尉、一中隊を指揮)、歩兵指図役(中尉、一小隊を指揮)という指揮系統のうち、特に尉官クラスは定員の半分も埋まっていないという有様だったとのこと。そうして実施された軍事教練は、陸軍および旗本・御家人の次・三男坊、その他幕臣、旗本の家来などを対象に、実地で練兵を叩き込むものでした。有名な「三番町屯所の脱走歩兵」が、このイギリス陸軍仕込みだったらしいという目撃証言があります。「英兵の如く赤色の服を着用」していたとあり、これを抑えに走った古屋佐久左衛門もまた、イギリス軍仕込みです。
一方、フランス式伝習の開始は、慶応二年。英国が薩摩と親しくなっていくのを背景に、フランスと幕府が接触の回数を増していきました。当時役職を免じられていた小栗上野介と浅野美作守が隠密裏に働きかけて、フランス公使ロッシュとの間で教官招聘の話が纏まり、横浜郊外の太田陣屋にて、「御目見え以上・以下、当主・子弟・厄介に至るまで、15歳より35歳までの者は吟味の上、仏蘭西国より御雇に相成り候教師より、三兵伝習仰せ付けられ候」となる。シャノアンヌ以下15名の教官が慶応三年1月に来日し、すぐさま伝習が開始されたのですが、これが、後の伝習隊の元となります。(このへんの調練の厳しさは、松井今日子『幕末あどれさん』(PHP文庫)を読むと面白い)
人数については、当時を振り返った圭介の話に、「二大隊くらいしかない」兵を「(江戸に移ってきたときに)大手前屯所に置いた」「それから追々兵数も増して四大隊位あった」と記されています。
幕府の陸軍歩兵としては、慶応元年〜の長州征伐で大阪まで行った隊が全部で7大隊。この時点では、「伝習隊」はまだ存在しません。その後、慶応二年の「軍役令」を経て、同年11月より陸軍所が開設され、(1)
旗本軍役はすべて銃卒の人数をもって決める。 (2) 各主人を司令官とし、千石につき8人を基準に隊を結成する。 (3) 五百〜二千石までの旗本は、総人数を二分割して陸海両軍に分け、両奉行に統括させる。
(3) 陸・海軍奉行は新たに若年寄から一名ずつ選出し、三千石以上を支配させる。それ以下の者は在来の両奉行を奉行並として支配させる。 (4)
小姓組、中奥番組、書院番組、大番組、新番組、小十人組、御徒組(すべて旗本の役職)を全廃し、ことごとく銃隊に編成する、などの処置により、上士は奥詰銃隊・遊撃隊に、下士は撒兵隊に振り分けられ、歩兵についても、徴兵を各地の天領に広げ、千石につき一人を召し出し、これを御料兵と名づけるなど、大幅な改革が行われました。そしてその結果、全員が士分の隊、士分と足軽の混成部隊、ごろつきの新規採用が多い部隊など、ばらばらで収拾のつかない状況が生まれていったのです。
つまり、幕府の洋式陸軍自体が急場凌ぎの連続で作られていったため、指揮系統も構成も統一されていない諸隊を無理矢理総称して、幕府陸軍といっていたわけです。その中には幾つかの銃隊、歩兵隊、砲兵隊があり、「伝習隊」というのはその一部、太田陣屋でフランス式調練を受けた二大隊を中心に構成され大手前と小川町に駐屯していた部隊であり、やはり三番町の隊は伝習隊ではないのではないかという気がします。
ちなみに、↓で引用している『半七捕物帳』は慶応元年の2月の話なので、小川町屯所が舞台でも、駐屯しているのは伝習隊ではありません。圭介が幕臣に取り立てられたのも慶応二年なので、まだ小川町にはいません。(ただ既に兵学者として名は通っていたと思いますが)
■□■江戸切絵図も莫迦にできない。
池波正太郎氏(私の尊敬する大好き作家さん)の著作に、『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)というのがありますが、物は試しと開いてみればいろいろと奥が深かったです。
まず、向島の小倉庵ですが、思いっきり『切絵図』に載ってました(爆)
安政三(1856)年の「隅田川向島絵図」の右上のほうに、白抜きの「水戸殿」の字があるのですが、その左隣。「常泉寺」を挟んで、「小倉庵」という字が小梅村にあります。描きこまれた絵から、桜の木や庭が見所のようです。現在の地図と対比させると、吾妻橋を渡ってまっすぐ浅草通りを東進し、業平橋を渡りざま左折し、北十間川を渡ってすぐの左手です。たぶん今なら、小梅橋を渡った先のあたりじゃないでしょうか。
ふたつめは、小川町の屯所。これは、『切絵図』に加えて、岡本綺堂の『半七捕物帳(五)』を参考にしたのですが、綺堂の記述によると、「小川町の歩兵屯所も土屋采女正と稲葉長門守の屋敷の建物はみな取り払われて、ここに新らしい長屋と練兵の広場を作ったのであるが」とあります。ここで『切絵図』の「小川町絵図」(文久三(1863)年)を確認すると、ちょうど今の小川町3丁目のところに、「御用屋敷」という字が見えます。どうやらここが「小川町屯所」だったようです。稲葉邸も含めると、小川町の交差点から富士見坂までの広大な敷地になりますが、どこだったかで目にした資料に、小川町屯所は「小川町の西のほう」とあったので、御用屋敷だけという可能性も捨てきれないかと考えてみたり。
ちなみに、大鳥さんの自宅が元々誰の屋敷だったか、というネタもどっかでちらっと見た、気がするのですが、どこだか憶えてません。…どこだ……。(頑張れ思い出せ自分!)
ところで、↑を確認するために、『われ徒死せず』を開いたら、大鳥さんの出世に関して「慶応三年に歩兵頭、同年三月に歩兵奉行となり禄高三千石」と書かれてて焦りました。確か昇進は両方とも慶応四年だったはず…???
そして福本さんによれば、慶応三年秋に横浜から調練が江戸へ移った時点で、圭介の傘下に大手前大隊、小川町大隊、三番町の一大隊と砲隊総勢三千名があり、これを伝習隊と呼んだとか。
別の資料では、二個大隊1400名の洋式歩兵部隊で、圭介が隊長を務め第一大隊長は小笠原石見守、第二大隊長は沼間慎次郎、となってます。
岡本綺堂の作中では、慶応元年の2〜3月の話として、小川町駐屯は「第三番隊」といい、2000人以上の歩兵が幾棟もの大きい長屋に小隊ごとに分かれて寝起きをしている、と書かれています。構成は40人で一小隊、三小隊で一中隊、五中隊で一大隊、だそうです。
ぜんぶバラバラでどれを信用すればいいのやら(苦笑)
■□■別荘・補足そのに。
建物の行方ではないのですが。
『大鳥圭介伝』にもちらほら別荘の描写があったので、ついでに抜粋。
「翁は晩年国府津の別荘に隠栖し、麻布三河台の本邸は富士太郎氏の留守宅になって居る、」「海嘯に懲りた翁は、停車場の北眺望の佳い丘陵に別荘を改築した、瘤のある門の柱に『瀧の家<たきのや>』と洒落た札がかけてある、邸内に不動の瀧と云ふがあれは之に因んだのである、又杉子爵が扁額に『不老泉』と書したも亦之に引由したものである」
(造船総監 澤鑑之丞氏(澤太郎左衛門令息) 談)
「別荘は『沿山籬落斜<山に沿いまがき落ちて斜めなり>』の趣あり。松籟あり、渓声あり。男(男爵)は、南向きの硝子障子の、折り回したる畳を敷きたる、広き内縁に、暖かき春の日を受けて、小机を前に置く。」
(文学士 横山健堂(達三)氏 稿)
「男は晴天の日は庭園に草木を栽培し雨天の日は読書、詩歌、謡曲などを為し謡曲は観世流を収め、」「病床にあっても常に近所の謡曲道楽の人を招いて聴き又蓄音機で忠臣蔵、千代萩の浄瑠璃などを奏せしめ且つ郵船会社中溝氏夫人鶴子を招き、常盤津の宗清を弾ぜしめ喜んで聴き、死する迄陽気に日を送られた。」
「沿山籬落斜」の漢詩は、ちょっと調べてみましたが引っかかりませんでした。郵船会社の中溝さんも、ググってみましたが手掛かりなしです。
それにしても、『大鳥圭介伝』の『名士の談話』は何度読んでも面白い。
「男の嗜好は第一読書癖なり、」「老後に及びても余暇あれば英仏和漢の書を手にす夕景庭園に入りて花卉に培うときすら、縁に腰打ち掛くれば忽ち側らの書籍を手にす」
「食物については蟹、海老と豆腐が大の好物にて、殊に神戸の豆腐は好いなどと賞美せられき、蟹蝦類も不消化と知りつつ常に之を下物<さかな>として杯を傾けらるるが常なり。」
「頗る健啖家で食物は淡白なる野菜を嗜み、酒は多量に用いた、遂に之が病の因となったので、昨年大患以来青山博士の注意で一滴も口にしなかった、老境に達するも矍鑠として衰えず、平生客に対しおれは百歳の齢を保つと云っておられた」
「(出獄後、吉田清成とともに外債発行の件で渡米したとき)先ず桑港<サンフランシスコ>へ着くと、立派なホテルへ入った、金を借りに来たのだからかなり立派なホテルに入ってふくふくした、蒲団の中へ寝たのだが、大鳥先生牢の中で物相飯を食べて間もない事だから大恭悦だ」
ふかふかの布団で大喜びする40歳を思い浮かべて、何だか心が暖まりました。
■□■小池光の短歌
「夏の葉桜つらぬき差せる日のひかり広瀬武夫の墓、大鳥圭介の墓」
作者の小池光は昭和22年(1947年)に宮城県に生まれ、東北大学理学部在学中に全共闘による学生運動を経験したいわゆる団塊の世代。現代歌人協会理事だが、高校の物理の教諭でもある、らしい。
「小池光の歌特有のおかしみは、凝らない言葉のやさしさに比して、内容の上でいたく高度な要求をする。普通なら悲しみにつながりそうにないところに悲しみの回路を開き、“あはれ”を導く。」(今野寿美、歌人、月刊誌・短歌 平成11年8月号・特集「現代の男性歌人たち」)
「短歌特有の深刻なポーズがいつのまにか自己肯定になってしまう。そのかたわらを風俗や口語の力によってすりぬけてしまう若手歌人。(中略)和歌の伝統を引き継いだ秀歌性を攪乱し、現実のずれを作品化することによって読み手の内側になにか刻印を残す。それが彼の狙いである。」(小高賢、歌人、新書館「現代短歌の鑑賞101」)
広瀬武夫(1868〜1904)は、大分出身の帝国海軍軍人で、小学校の教師をしていたが退職して上京、海軍兵学校に入学した。明治30年、命令でロシアに留学し、2年後には駐在員となる。ロシアの貴族社会で交際を広げ、伯爵令嬢アリアズナという恋人もできた。しかし明治35年に帰国したその2年後、日本がロシアに宣戦布告。少佐の広瀬も出征し、旅順港口閉塞作戦(ロシア海軍の軍港、旅順の入口に廃船を沈め、軍艦の出入りを不可能にしてロシア軍艦を旅順から出さないようにする作戦)に加わる。突入に先立ち、恋人と旅順港内の戦艦に乗るロシア人の友人に書いた手紙が残っている。広瀬は都合2回の作戦に指揮官として参加。2回目に乗り組んだ福井丸を沈める際、退船直前に部下の杉野上等兵曹の不在に気づき、敵の砲弾の降る中、ボートと船内を三度も往復して探した。しかし見つからなかったためやむなく脱出を決意、ボートを漕ぎ出したところ、敵弾を受けて戦死した。死後、中佐に昇進。部下思いのエピソードと壮絶な戦死の有様から、新聞で大きく報道され、明治以降の最初の軍神となった。墓は出身地の大分県竹田にあり、同地の広瀬神社に祀られているほか、少年時代を過ごした高山の飛騨護国神社にも銅像が残る。
さて、ではどうして小池は広瀬と圭介を並べて詠んだのか。
実はこの二人には、圭介の息子たち、次郎、六三が、広瀬の柔道仲間だったという繋がりがあります。更にロシア駐在時、広瀬が兄嫁の春江に宛てた手紙の中に、「大鳥さんの子供たち」の写真を送って貰った礼を述べている箇所があるそうです。
とはいえ、それ以外に両者をつなぐ糸は見えません。墓のある場所もバラバラですし、広瀬武夫を検索して大鳥圭介がわさわさ引っかかるわけでもない。交友関係でいうなら、次郎とか六三の墓と並べるならともかく、何故どうして圭介なのか。「軍神」と圭介。……わからん…。短歌・俳句・詩吟が趣味だったという係り合いでもあるのか?(にしたって歳離れすぎだろう→の前に友人の父親だぞ…?)
そこで、広瀬の手紙にある「大鳥さんの子供」というのが誰か、というところから攻めてみました。
春江宛ての手紙が書かれたのは、明治34年、広瀬32歳の時。子供たち、といっても、広瀬は姪っ子の馨子(7歳)と並べて、写真がロシア人の間で可愛いと評判になるだろう、と述べているので、友人である次郎(30歳)や六三(27歳)のわけはありませんね(爆) まず浮かぶのは、「孫」の間違い。ちょうど、長男富士太郎の長女と長男が年齢的に合致しそうです。ですが、ここで大鳥さんが御年70になるまで子供を作り続けたという事実(笑)も思い出してみましょう。すると、明治29年に六女鴻が生まれています。手紙が書かれた当時の年齢で、5歳。ぴったり釣り合います。ということで、どうやら手紙に登場する「大鳥さんの子供」は孫ではなく、正真正銘圭介の子、鴻であったという可能性が高そうです(「子供たち」なのであれば、もちろん孫の写真もあったかもしれませんが)
…そうかー、鴻ちゃん、わざわざロシアに写真送らせて自慢するほど可愛かったのか…。(広瀬自身、ロシアに行く前に赤ちゃんの鴻に会っていたりするのかも)
でも、ってことは、ですよ。そのくらい、大鳥家と広瀬家、親しい付き合いをしてたってことなんでしょうか。それとも、次郎か六三が、妹自慢をしまくったのか。…結局、謎が深まっただけかいな(溺死)
■□■国府津の別荘・補足
横着をしないで、ちゃんと資料を読むべきでした。『われ徒死せず』に、別荘の話が載ってました…。(p282〜)
最初の別荘は、国府津駅から西に1キロ、東海道と森戸川に囲まれた海に近いところでした。西湘バイパスの国府津インター付近だったもよう。「同処ハ海岸ニテ風景宜布庭園も広く養老の好境ニ御座候」
明治35年9月28日の大波(津波と称する記録もあるが、暴風雨によるものであれば、むしろ高波と称するべきかと)は、朝4時頃から雨が降り始め、5時頃には強い北風を伴い、7時頃には暴風雨となった。10時頃になって、海岸の家屋に怒涛が押し寄せ、慌てて避難を始めるうちに、また3メートル以上の大波がきた。これが木々や家々を押し流した、と、当時の国府津村村長が書き残しています。午後2時には雨風がだんだん弱まり、午後4時には全く収まったとか。この災害で、15名が死亡・不明、109戸が破壊されました。
屋敷ごと下敷きになった圭介、命からがら屋根の上に這い出すと、午後2時40分の汽車に乗り、夕方5時40分には麻布の家にお帰りになってます。国府津を出る際に自宅に打った電報より早い帰宅。そして夜には取材を受けてます。………元気だな72歳!
しかしこのときの取材の記録が…何というか…。
「一時頃ハ畳間デ早昼ニシテ酒ヲ飲ンデ居ルト」って真っ昼間から酒ですかい。でもって、どうも外は酷い有様だなと、隣室へ移りガラス窓から海を眺めます。と、「山ノ様ナ大浪ガドツト寄セテ来タト思ツタ迄ハ知ツテ居マスガ其跡ハ一向ニ分リマセン」とのこと。覚えているのはバラバラという音と、真っ暗になったと思った瞬間に家が潰れたため、「生キテ居ルカ死ンデルカノ差別モソノ時ハ付カナカッタノデス」。「ソシテ両手ヲ動カシテ見タラ動クシ身体ヲ動カシテ見タラ動クシ」、ふと上を見たら潰れた材木の間に90センチ四方程度の穴があり、そこを波が越えていくのがよく見えた。波が引いた隙にその穴から這い出たら、近所の人たちが「殿サマハ何シタ、殿サマハ何シタ」と大騒ぎで、穴から上半身を出したところを皆で引っ張り出してくれた、そうです。
別荘の管理をしてくれていた婦人がこの高波で死亡、懲りた圭介は、小高い丘の上に新しく別荘を建て直します。駅から北に1キロ、六千坪の敷地には滝があり、清の高官から贈られた梅の木(臥龍の梅)があり、相模湾や箱根が一望できました。瘤のある門柱に「滝の家」と書かれていて、晩年の慶喜はここがお気に入りでよく訪れたとか。
圭介の死後30年経ってこの家は山林付きで売りに出され、隣の土地を所有していた石田礼介が買い取ったのですが、このときのことを書いた記述に、崖の上の茅葺きの家、泳げるほどの滝壷と渓流、水車、地元で酒造に使われるほどのおいしい水、と記されています。しかも、石田さんは最初、全然買う気がなくて、でも人から強く勧められたので「じゃ、買っておくか」と買ったそうな…。そんな扱いか(爆)
臥龍の梅はまだ残っているそうですが、石田さんに農園にされてしまった土地は、今はキウィ畑になってるそうです(笑)
そんなわけで、結局、建物の行方はわからないまんまですが。
■□■大鳥別荘跡@国府津
http://homepage3.nifty.com/kouzusyoukoukai/be_ootori.htm
「東京都の保養所として箱根に移された」後の建物の行方が非常に気になるのでーすがー…。
現在の東京都直営の箱根保養施設は、箱根町湯本にありますが、建物は当然違います。あの場所に移されたのかな…そうなのかな…どうして保存しといてくれなかったのかな…。むー。
譲り受けたという「石田禮助」は昭和38年に数え78歳で第五代国鉄総裁となった人物。明治19年西伊豆生まれ。国府津の「駅からだらだら坂を十五分あまり上ったところで、低い山を背にし、眼前には帯状の平地を隔てて箱根連山、さらにその上に大きく富士を望む景勝の地」に「戦後すぐ」「大きな屋敷を構え、食料難というのに暖衣飽食、気ままな暮しぶりで『けしからん、ブルジョアの権化』として左派的組合の標的に」なったそうですが、その場所が「明治37年岡地区の山裾へ移転」した圭介の別荘でしょうか。
この石田禮助というひともなかなか面白い人で、麻布中、東京商科大を出て最初三井物産に就職し、35年間の勤務中なんと28年を海外で過ごし、代表取締役まで進みます。「財産税を払うについて、税務署なんかに頭を下げるのはいやだから、すっかり売っ払っちゃった」なんてコメントも残しています。……素敵…。(最近じいさまに弱い葛生)
「総裁に就任してまもなく、嫁や孫を連れ、石田が畠仕事のままの汚ない恰好で散歩に出ると、近くの御殿場線で作業員が保線工事をしていた。石田は立ちどまって、しばらく眺めていてから声をかけた。
『ごくろうだね。きみたちが居るから、安全なんだよ』
作業員はとり合わず、むしろ石田を叱った。
『じいさん、じいさん、列車が来るから危ないよ』」なんてエピソードも、『粗にして野だが卑ではない』(城山三郎、文芸春秋)にあるそうです(「広報おだわら」HPより)
この本には、国府津の様子が登場するということなので、縁があったら読んでみたいもんです。
あ、ちなみにこのひとのお母さんは、北海道開拓で有名な依田勉三の一族出身ということですが…関係ないか、この年齢差じゃ。
閑話休題、大鳥さんの話。
地元の住民とも親しく付き合い、津波被害の際には(瓦礫の下から這い出てきたといいますが)近所の鳶職に助け出される男爵閣下…。いいなぁと思います。素敵です。結局、出自云々よりは人柄という気がします。飾らない奢らない。ときどき他人を莫迦にするけど(爆)
■□■牛乳と飯田橋
牛乳が日本人の間で一般的になったのは、明治政府の勧農畜産政策がきっかけだったと言われます。いの一番に名乗りをあげたのが、ご存知、新撰組の主治医・松本良順先生。なんと東京のど真ん中、赤坂に牧場を作っちまいました。これを皮切りに、続々と政府高官・財界の名士、旧藩主・有力旗本が出資者として、また自ら搾乳業を経営するようになり、こうした話題性と、松本先生の一策(人気女形に街頭で試飲パフォーマンスをさせたらしい)が後押しして、牛乳はあっというまに普及したとか。
明治7年には、竹橋や麹町などに計7つの牧場が存在したという記録があります。街のど真ん中に牧場ができた背景には、大名の江戸屋敷制度の廃止に伴い、旧江戸の中心地にあった武家屋敷街が荒廃していたという事情があり、政府はこれを開墾用地として、禄を失った旧武士に下げ渡し失業対策としようとしたのですが、畑としてはなかなか成功せず、酪農だけが成功したということらしいです。赤坂山王日枝神社の駐車場横には、「わが国黎明期の牧場」という説明プレートがあるそうです。
さて、牛乳屋をはじめた有名どころには、山県有朋だとか副島種臣だとか、我等が榎本さんだとかが含まれるのですけれども。
榎本さんが作った、「北辰社牧場」。実は、釜さんと大鳥さんの共同経営だったらしい。
明治6年創業、事務所は神田猿楽町にあり、麹町区飯田三丁目(榎本邸跡?)に牧場をつくりました。最盛期には乳牛が4〜50頭もいて、近隣を中心に牛乳を供給していたそうです。『北辰牛乳』は戦前まであり、近辺の苦学生の貴重なアルバイト源だったという証言も。
飯田三丁目という番地は当時のものなので今はありませんが、目白通り沿いに「北辰社牧場跡」の碑が立っています。>>「飯田橋歴史のプロムナード」
ここで問題。同じ千代田区の、九段南に、「明治牛乳北辰社、創業明治4年・業務用乳製品・食材卸し」というのがあるのですが…。>>「千代田区九段商店街組合・東郷通り東ブロック」
神田の「北辰社」が明治6年創業、であることは、主に乳業関連の複数の資料から裏付けられるのですが、「榎本武揚、明治4年1月8日北辰社設立」という記述をちらっと発見しまして、九段の北辰社の設立時期と重なります。でも、最大の問題点はですね、明治4年1月…って、釜さんも圭介も揃って未だ入牢中なんですけど…。(でも、明治6年の間違いだったとしても、1月8日じゃいくらなんでもおかしいでしょ?)
九段南の北辰社は、実は私の母校のすぐ近くでして、来月同窓会があるので覗いてこようかと思いますが、覗いたところで↑の謎は解明できない…だろう、なぁ…。
■□■グラスゴーそのいち: 「Willis and Lochiad Co.」
宮永孝『白い崖の国をたずねて』(集英社)を参照すれば、伊東博文の行動から、「Willis and Lochiad Co.」は「ワイリー&ロッホヘッド社」だと思われます。
正しくは、「Willie & Lochhead Ltd.」。グラスゴー大学の記録には"house furnishers""the
cabinetmakers and furnishers"と記載されており、宮永の「室内装飾用品(家具・掛け布・カーテンなど)をじっくりと眺め」という記述と対応します。"My
Goodness, My Guinness"というスローガンを掲げて広告展開をしたことで有名らしい。>>広告
会社そのものは現存はしませんが、製造・販売していた家具類は現在でもアンティークとしてオークションに出品されています。
1830年代初頭に、ロバート・ワイリー(Robert Wylie)とジェームズ・ロッホヘッド(James Lochhead)の二人が、トロンゲイト街に所有していた店で"upholstery(室内装飾用品・掛布等)""furnishings(家具・服飾品)"
"paperhangings(壁紙)"などを扱いはじめたのが起こり。
トロンゲイト(Trongate)はグラスゴー最古の主要道路(4本)のひとつで、グラスゴークロス(Glasgow Cross)からアーガイルストリート(Argyle
Street)の間にあります。現在のメインショッピングエリアであるソキホールストリート(Sauchiehall Street)やブキャナンストリート(Buchanan
Street)が発展するまでは、ここがグラスゴーの商売の中心地でした。
ワイリーとロッホヘッドは、その後ブキャナンストリートに新しく設けた店舗に室内装飾用品の専門フロアを設け、ベッドカバー・テーブルクロス・羽根布団・絨毯・壁紙といった品を数多く揃えました。また、製品の自社製造も始め、ケントロード(Kent
Road)のチャリングクロス近くに高級家具・壁紙の製造工場を、ミッチェルストリート(Mitchell Street)に室内装飾品・彫刻(彫り物)・メッキ(粉飾)の工場をつくりました。
1862年には、ホワイトインチ(Whiteinch, グラスゴー郊外クライド川沿い)にブロック(版木)捺染と機械染色を行う大きな工場を設立、壁紙の量産体制を整えます。これによって、ワイリー&ロッホヘッド社の壁紙は英国全土で有名になっていったそうです。
(ここまでリファレンス: Glasgow University Archive Services, DC198/2/17 他)
一節には、ソキホールストリートとウェストキャンベルストリート(West Campbell Street)の角に店舗があったらしいといいますが、これは後年の販売拠点でしょうか?
宮永氏の記述からすると、圭介らが訪ねたのはブキャナンストリートの店である可能性が高いですが、圭介の日記には「形紙製造局」という記述と、その後造船会社にて船下し(たぶん進水式)を見たとありますから、ケントロードの工場である可能性もあります。また、宮永氏の記述に「それよりケント街の高級木工家具店に寄った」とあるので、両方見たという可能性も捨てきれませんね。(彼らがバラバラに行動していたという可能性もありますが)
(そんなかんじに英国時代のことを調べておりまする)