本日の鳥飯。




■□■覚書(圭介伝抜粋、自分用メモ)

『大鳥圭介伝』所収「名士の談話」に描かれている圭介の為人。(面倒臭いので一部旧字体→新字体)

「男の胆力、学問の衆に秀でたこと、宇内の大勢に通暁して居た事は驚く許りであった、蘭学は造詣深く軍事の知識も富驍であったので、若し薩長出身ならば今頃は元帥には成っている人である」
「男は胆力の強い意思の鋭い方であった、そして非常な勤倹主義の人であった為めに、或る一部にはしみったれの如くに悪声を放たれて居たが、決して出すものに出さず、与ふべきものに与へざる如き所謂しみったれ心の人では無かった、出すべき理由あるもの、与ふべき責任あるものには万金と雖も惜まざる性質、言換ゆれば信念ある出納を取った人であったと思ふ」
「其の人格風貌は一世の欣仰に値する人として疑はないのである」
「其の人物品性に至りては、流石に成敗利鈍を以て、左右し得べきに非ず、高潔なる品性と凛乎たる気象とは世の滔々たる俗流と同じからず、当世に翩々たる俗政治家とは自から選を異にするものあり、詩を賦し歌を善くし、書も亦妙にして其の高風清節敬慕すべき一人物なりし」
 (林董(董三郎)、伯爵、箱館政府において通訳をつとめる)

「其の性恬淡洒脱人に対して親切に、且つ如何にも公義に厚い人であった、今日になっては取立て云ふ程でもあるまいが、当時は兵学に深かった方で、一体に学を好むと云ふ性質は老いて尚ますます切なりしやう見られた」
 (加藤弘之、男爵、文・法学博士、坪井塾同窓)

「漢籍は勿論洋学にも暗からず、囲碁、謡曲を楽み最も書道を能くし、如楓散人と号し、筆蹟世に尠(すくな)からず、頗る健啖家で食物は淡泊なる野菜を嗜み、酒は多少に用いた」
「老境に達するも钁鑠として衰へず、平生客に対し乃公(おれ)は百歳の齢を保つと云って居られた」
 (澤鑑之丞、造船総監、澤太郎左衛門子息)

「大鳥男は、実に才芸の人で詩も作り、歌も作り又文章も善くし、殊に蘭学及び英学にも造詣が深かった、且人物が何処までも節約にして榎本氏のやうな多数の人を統御する、云はば親分と云ふ様な濶達の風はなかった、要するに私は大鳥男は才芸の人であったと思ひます」
 (島田三郎、ジャーナリスト、衆院議員)

「氏の性格は沈着大胆で、小心翼々と云ふ側ではない、榎本氏は何処か涙もろい所があったが、氏には夫れがない、又真面目であった丈に語る程の逸話もない様だ、勿論緒方の門にゐた頃は随分粗暴な事もあったであらう、福澤氏も一寸其の事を書いてゐた、私の居た頃も中々激しかった、尤も当時大阪へ行くと云へば今の洋行位に感ずるのだから、自然気象の強い人が出て来たのにも依るのだらう、氏は広く種々の事に通じてゐた」
「禅はやらず、座禅解脱等と称えなかったけれども、千軍万馬の間を往来した丈に自づから其の境に居たものと思はれまする」
 (本山漸、海軍少将、戊辰戦争当時美加保丸航海長)

「詩を作り又書を能くし、近頃和歌も幾らか上手になられたが詩の方が巧い」
「先生は子福者でいつぞやも七十になって子供を拵えたと言って威張って居た」
「初に蘭学を学び後に英学も中々出来る様になりました、吉田先生も英学の翻訳に甘(うま)かったが、大鳥先生も意訳は中々甘い別に之と云ふ道楽は何も無い様です」
 (本多晋、元彰義隊頭取、明治5年、圭介と共に吉田清成に随行)

「氏は酒を飲むも女を近づけず、酔へば漢詩を作りて幾回も朗吟し、夜の更くるも知らざりし」
 (安藤太郎、箱館軍海軍士官、香港・ハワイ領事、日本禁酒同盟会長)

「男は酒を嗜み詩賦を好みて書も善く殊に和歌は或る場合には詩よりも情緒の流露せる諷詠少なからず」
 (町野五八、箱館脱走組)

「男の平生訓。男が平素家人に対して口にする所は人は信義を専一とすべきこと、一旦過(あやまち)て信を失すれば、其の快復容易に非ざるべし、或は又士は宜しく大成を期すべし、焦心燥急は取る所にあらず、殊に死生を賭しての事業は名を為す早きものあらんも、学に據(よ)りて大名(たいめい)をかち得んことは一旦の業に非ず、門弟子を誡めて名に趁(はし)る可からず、唯孜孜(しし)として己を修むべきのみと云ふが如き、其の人と為りの一端を知るべきなり」
「男の嗜好は第一読書癖なり」
「老後に及びても余暇あれば英仏和漢の書を手にす夕景庭園に入りて花卉に培ふ時すら、椽に腰内掛くれば忽ち側らの書籍を手にす、是は男を知るものの皆推称する所なり」
「食物に就ては蟹、蝦と豆腐とが大の好物にて、殊に神戸の豆腐は好い抔と賞美せられき、蟹蝦類も不消化と知りつつ常に之を下物として杯を傾けらるるが常なり」
「男の性格を一言に評すれば温順恭謙の人なり」
「平素親戚故旧に薄しとの世評なきに非ざれども、是は男の精神を誤解せるものにて男は常に語りて処世は経験を基礎とし種々の工夫を積むことを要す、一旦の失敗挫折を見て忽ち他より之を救援するが如きは却って其の人の大成を損ふものなれば、或程度までは放置するを可とす、親戚故旧と雖も縁者に大鳥あるを頼んで世に処せんとするが如き精神にては、根本に於て誤れりと述べられたるにて、其の意を知るべきなり」
 (大國眞太郎、医学士)

ここまで、第一弾ということで。本多さんと安藤さんについてはツッコミ所満載なため敢えてシンプルに。戊辰戦当時の指揮ぶりと、その後軍事に関わらなかったことについてはまた別途纏めます(大國さんのコメントが素敵すぎてもう)。あと、横山さんの寄稿も好きすぎて抜粋できないのでとりあえず先送り。


(20050731)



■□■覚書(圭介伝抜粋)

『大鳥圭介伝』執筆にあたっての「史料に関する寄書き」から個人的メモ。(面倒臭いので旧字体→新字体で記載)

「大正三年十月二十七日  山縣有信
 千葉県御中   
一、市川駅畔なる小寺院に至り兵隊へ昼食の命を伝え置きて寺内に入り云云とあり、右小寺院の名称
 答、古老に就き調査せるも確たる証なきも最も真に近きものと思料せらるるものを以て以下記載す
 市川町大字真間弘法寺末寺大林院 目今廃寺たり
一、小金駅に一大禅寺あり諸兵隊此に入り昼食の用意を為し云云とあり右一大禅寺の名称
 答、浄土宗東漸寺 十八檀林の一、小金駅には一大禅寺と認むべきもの東漸寺以外には一大寺院なし
一、慶応戊辰四年四月十五日岩井宿昼食当村里長某色々尽力云云と有之、右当時の里長の人名
 答、茨城県猿島郡と思考す
一、同日黄昏、諸川駅に着き、里長の某宅に宿せり云云とあり、右里長の人名
 答、同上
一、葛西の渡、小金駅、舟渡村、莚打の渡場、右圏点の地名へ振仮名を附せられたし
 答、かさいのわたし。こがねえき。ふなと(舟戸)むら。むしろうちのわたし。舟戸は以前舟渡と云ふことありしや否や不明なるも、現今田中村大字舟戸のことならんと思考す。
(著者曰く、著者は本文の事項に関し千葉県へ照会せし所、同県より更に東葛飾郡役所へ移牒し、大正三年十一月八日同郡役所より著者の照会文中に朱書にて答を記入して返戻せられたり依てここに掲ぐと云爾」

「史料に関する寄書  茨城県猿島郡長 小泉正三
庶乙第一九九四号
大鳥圭介伝編纂に関して里長の人名御問合相成候所左記之通に有之候間御了知相成度候
 記
一、慶応戊辰四年四月十五日岩井村里長は間中宜之なり、但明治二十六年一月死亡し現戸主は孫謙三なり
一、右同日諸川町里長は中村喜寧なり、但明治四十四年七月廿一日死亡孫沈三家督相続す
 大正三年十一月三十一日」

「史料に関する寄書  宮城県 土木課
一、東名。松島湾口の漁村なり榎本艦隊の投錨したる潜(かつぎ)ヶ浦と相対す
一、折ノ浜。牡鹿半島における海湾なり帆船時代にありては石巻函館間の航路に当るを以て商船の来泊するものありしが今は単に漁港たるに過ぎず
右御答申上候
 大正三年十二月九日
(著者曰く、東名の地名に関し大鳥男爵は南柯紀行中に東薺と記し又折ノ浜に就ては或は折濱と記載したるものもありしに付き何れが正確なるやを宮城県庁に照会して此の回答を得たり。)」

「史料に関する寄書  栃木県上都賀郡今市町長 高野留吉
大鳥男爵伝記著述に関し戊辰中中本町の本陣における主人名義調査方御申越に依り取調候所詳細の事は不明なるも当時の戸主は大島平兵衛にして同人は既に明治八年六月死亡遺族たる現今戸主は大島啓重郎なるものに有之候条右回答に及候也
 大正三年十二月廿五日
(著者曰く、大鳥圭介が今市町の本陣にて松平太郎と共に宿泊して終夜談話せられたる由なるも其本陣の氏名主人不明に付き照会して此の回答を得たり)」


…なんか思った。伝記著述用の資料収集って、もしかしなくても同人の資料収集に似てないか?(爆)

市川で圭介らが会合した寺の名前が、『北関東会津戊辰戦争』(島遼伍、随想社)で「大林寺(廃寺)」となっていたのは、圭介伝の記述を基にしたのだろう。場所は市川駅北側とのこと、ネットで引っ掛けた情報によれば、千葉街道沿いの市川西消防署の裏手あたりとなってますが、どこがソースかは不明。
「弘法寺」という寺の末寺だというなら「小寺院」という記述も理解できるが(安国山総寧寺が本陣だったという資料もあるが、総寧寺は幕府直轄の大寺)、一方で、その後わざわざ3軍に分けて出立したほどの大人数が、市川宿や「小寺院」程度に収まるとは思えないという問題も発生する。大林院には隊長クラスだけが集合して、他は周囲に点在していたか、以前分析したように国府台城址に屯していたという可能性もあるのではないか。←全て想像ですが。



(20050728)



■□■沼間さんってこんな人――尾崎行雄による人物評

東京市長をつとめた「憲政の神様」こと尾崎行雄(咢堂)の『近代快傑録』。明治政界人を滅多切りにしていると聞いて入手したんですが、沼間の項があったので思わずご紹介(抜粋)。沼間と尾崎は立憲改進党で接点を持つのですが、期待を裏切らぬ尾崎の口の悪さに抱腹絶倒です。

まずのっけから、「沼間守一君の傲慢無礼な事は、余程有名なものであった。」(笑)
「併しなかなか才略のある人で、須藤、高梨と三人の兄弟中で、最も傑出しておった。初め歩兵の教練を研究して、幕府の余り好い位置ではなかったろうが、御家人や旗本などの教官となり、日光付近の今市で官兵と戦った時には、一少年士官の身を以て、目覚しき働きを為し、散々に官軍を駈け悩ませた。之がため官軍の知る所となり、戦後、「彼奴は面白い奴だから、練兵教師に頼まう」といふ事で、土佐藩の招聘するところとなったが、傲慢無礼、人を人とも思はぬので、兵士の反感を買ひ、遂に袋叩きに遭って、ホウホウの体で逃出したやうな騒ぎをやった。」
…なんだか土佐の話と会津での話がごっちゃになってる気がしますが、要するに「傲慢無礼」を強調したいんですよね…。でも、「一少年士官」って、沼間は戊辰戦のときは数え26じゃありませんでしたっけ?

「明治十二年府県会の開かれるや君は選ばれて東京府会に入り、時の議長福地源一郎君を圧倒して府会の全権を握るに至った。 (中略) 私は二十五歳になると直ぐに入ったが入って見ると、議員の多数は沼間派で、沼間君一人跋扈跳梁を極め、自派以外の者を非常に窘めてゐる。殊に郡部は地方費の負担が僅少だったから、恰も乞食でも扱ふが如く郡部議員を罵ってゐた。」
「私は日本橋区選出の議員であったが、疳癪に障って耐らないから、郡部の肩をもち、沼間君を対手に喧嘩を始めた。すると沼間君が怒って酷い事を言ふ。 (中略) それで私は益々怒って、事毎に突掛かった。此の時分の沼間君は、酒の為に脳を煩っておった。そこへ私が喧嘩を仕掛けるから、沼間君は益々脳を悪くして、頭に氷袋をのせつつ、盛んに論議をやった。」
「其のうちに沼間反対の人々が、私を舁いで議長の選挙を争ったり、常置委員の選挙を争ったり事毎に沼間君の反対に立ったため、沼間君は私を窘めることが益々烈しくなった。私も遂には沼間君を癲狂院へ入れてやらうとさえ考へるやうになった。沼間君は久しく府会内に跋扈し、他より手強き反対を受けたことがないから、高慢が増長して極点に達してゐたので、一寸人から反対されても、真赤になって怒る。非常に怒って酒を飲む、従って益々脳が悪くなる。若し私が一週間も続けて、罵詈讒謗をやり通したならきっと発狂する。発狂しても構はぬから沼間君が怒るやうに、機会さへあったら、突掛ってやらうと決心したが、それから間もなく私は保安条例に依て、東京退去を命ぜられたので、沼間君を発狂せしむる事が出来なかったのは、双方の幸福であった。」

……………。
えー、この時分(1880年代半ば頃)、沼間は40代前半、尾崎は20代後半。……なにやってんのキミタチ…?(呆)(つーか15歳年上を「発狂させてやろう」ってのもどうなのさ;;)
さて、ちょうどこの頃、民党の壮士たちは条約改正反対運動のため、後藤象二郎を中心に、政党の壁を越えて結託しようとしていました。が、立憲改進党と自由党は、尾崎の言葉を借りれば「多年の間宛然犬と猿の間柄」、仲がすごく悪かった。懇親会を開いたのはいいが、喧嘩が起これば政府に手の内を見透かされて何もかもが破談になるので、「なるだけ酒の廻らぬ内に引揚げやう、と云ふ事に打合せた。それで私などは重なる発起人であったけれども、日の暮れない内に早く引揚げた。」
ところが、沼間は帰らなかった、んですね…。そして自由党の星亨も、残った。そして、「果せる哉、私共の帰った後で大喧嘩が起った。」

「この星君と沼間君とは妙な関係で委しくは知らぬが、共に幕府の末路に洋学者として立ってゐたが、沼間君の方が星君よりも位置が高かった。星君の方は好位置を得ないで、大森在に阿母さんと住んでおった所から、沼間君は星君の事を、常に「大森の百姓」といって呼捨てにしておったさうだ。此の両君いづれ劣らぬ傲慢不遜の性質だから、星君は常に沼間君に対して、非常に悪感を抱いておった。所が此の日も沼間君は、星君が予て自分に対して悪感を抱いてるのを知りながら、
「大森の百姓、酒を飲めッ」と云って盃を差したから、星君は怒って、
「無礼な野郎だ、飲めとは何だ」
「飲ましてやるから飲めといふのだ」
「ナニ、飲ましてくれるとは無礼だ、ソレ殴れッ」
といふと、自由党の壮士連は、予て沼間君の言行を怒ってゐる折柄とて、燈火を消すと同時に、真鍮の燭台を持って殴り始めた。星君は梯子段の所へ突立って、巡査が来ても上げない。其の間に沼間君を殴り殺して、井生村樓の二階から隅田川へ投げ込ませる心算であったと云ふが、幸に巡査が来て沼間君を救った。是は其の夜晩くなってから、私の耳に入った話である。」

星は、荒っぽいようでいて、実は当代一と言われた弁護士さんだったりします。英国留学中に「バリスター(法廷弁護士)」の資格を取ったそうなんですが、英国にはバリスターとソリシター(一般の弁護士)の二種類がありまして、バリスター資格というのは、結構取るのが難しいのですよ。まず完璧な英語が喋れないと駄目だし。なので本当に凄い人なのです。なのに暴力と紙一重な謎な人物。
しかしこの話、沼間も沼間ですが、星も星。そして実は、尾崎も尾崎です…。

「私は、沼間君に対して気の毒に思ふと同時に同君の行為を見て憤慨に耐へなかった。 (中略) 先輩たる沼間君が、自ら斯る椿事を惹起すとは怪しからぬと思ひ、見舞ひかたがた詰問のために沼間君を橋場の邸に訪問した。すると、沼間君は全身腫れ上って、身動ぎも出来ない。私は一応見舞ひを述べ
「さて見舞は見舞だが、私は実に憤慨に耐へない。あれほど打合せてあるのに、之がため、折角の両党連合を打壊すやうな事があっては、容赦が出来ぬ。就いては、之を取返すために、貴下は是非とも本日の演説会に御出なさい。戸板に乗ってなりと演壇へ立って、喧嘩で打たれても、連合して国事に当るの精神に渝らぬ、と云ふことを示さなければならぬから、本日は戸板に乗って演説会場へ出給へ」
と云ふと、沼間君もああいふ負けぬ気の人であったから、
「如何にもさうだ行かう。歳甲斐もなく喧嘩して、諸君に迷惑をかけて申訳がない。戸板に乗って演壇まで行かう」
と云ふ。私も大に喜んで、演説会場でまってゐると、何時まで終っても来ない。聞けば医師から強って止められたといふ事であった。医師が寄越さぬのも無理はない、沼間君は之が原因となって、終に死んだのである。」

……これにて「沼間守一君」の項、終了…。
このネタを、こともあろうに「其の様な所はなかなか面白い人であった」という一例としてあげている尾崎の神経はやっぱりどっかおかしいと思います…。このひと、「憲政の神様」とかクリーンな政治家とか言われてるけど、たとえば号の由来の、「保安条例によって東京退去を命ぜられて驚愕したから」ってやつにしても、そもそもの発端は尾崎自身が会合で、そのとき進めてた政策工作が巧くいかないからって「いっそ東京に火ぃつけちゃおっか!」と危険な冗談を飛ばしたからだと本人は自己申告してますヨ。だいたいが犬養と親友な時点で口の悪さは折り紙付きな気が…←尾崎に言わすと犬養の毒舌は「病気」だそうですけど(笑)
そして、沼間ってすごく苦手だったのですが(大鳥さんに冷たいから)、尾崎のおかげで苦手意識が吹っ飛びました。いいよもう、沼間に何言われたって平気さ!(苦笑)

(20050723)



■□■沼間慎次郎ってこんな人――綱淵謙譲『戊辰落日』より、自分用メモ

明治2年、沼間の用兵を高く評価した板垣(退助)と谷(千城)が、土佐兵士の訓練にあたらせたのですが(この経緯については、『大鳥圭介伝』に板垣の談話として、「貴下等の兼て(戊辰脱走のことを指す)の持論は、天下を私する薩長に刃向ふたのである、然るに王政復古となった今日薩長が天下を私する模様が見えるから、若し私するようなら之を討たなければならぬ、我輩は之に対抗する積りであると云ふた所が、沼間は大に此の議論に賛成せられた」とあります。)、綱淵氏が紹介するそのとき訓練を受けた一人、中条昇太郎(後の陸軍少将斎藤徳明)の談話によると、
「沼間先生の号令は気合をもっていのちとしておられたので、まず右翼を視て『ダイターイ』(大隊)と呼びながら首を左翼に回転させ、右翼から左翼を一睨し、十分に気合の入ったところで、『進め』といわずにただ『ウォッ!』と叫び、同時に右手の親指を前にぐっと押し出された。この指のぐっと出るときの先生の眼光は、爛々として電光の如く、その声は大隊の首尾に徹底して、進退ただ先生の意のままであった」
………想像しちゃいましたよ、「大隊ー、ウォっ!」(笑転)

『戊辰落日』には、会津での沼間の指導の苛烈さが描写されており、その後にこの話が載っています。沼間のことは、実は私はあまりちゃんと調べてないのですが(汗)、綱淵氏によれば、会津藩が旧幕府に申請し許可されていた教官招聘によって、歩兵指図役頭取として畠山五郎七郎(後、箱館で歩兵頭並)、砲兵指図役として布施七郎、騎兵指図役として梅津金弥の3名が会津に到着。それと前後して、「たまたま幕府伝習隊歩兵第二大隊長歩兵頭並・沼間慎次郎が同隊士官7名ならびに下士13名を連れて来り投じた。石川安次郎著『沼間守一』によると、沼間を会津に招聘したのは藩老西郷頼母だった、という」。 沼間たちは3月7日に江戸を発し、14日に合図到着、「円寿寺をもってかれらの宿所と定め、畠山らの一行とともにフランス式の練兵を依嘱し、城中三ノ丸で昼夜兼行して藩兵の訓練にあたってもらった。」
旧会津藩士はこの訓練の様子を、「常ニ小刀ヲ帯フ。教師シバシバ脱刀ヲ勧ムルモ敢テ可(き)カス。此(これ)大イニ以(ゆえ)アルナリ。彼等教授中、己ノ意ニ適セサル者アレハ直チニ靴ヲ加フルガ如キ無礼アリ。苟(いやしく)モ教師ニシテ不遜無礼之行アルトキハ直チニ薙(き)ントノ意ニ出ルナリ」と書き残しています。つまり、会津藩士らは教官からの再三の注意を無視して腰に脇差を帯びて訓練を受けていたが、それは教官が教官らしからぬ無礼な振る舞いをしたら直ぐさま斬り捨てるためだった、ということで、無礼な振る舞いの具体例として「足蹴」があげられています。
また、他の記録によると、訓練にあたったのは、「幕人沼間慎次郎及其門弟、佐倉の人畠山五郎七郎、会津人浅岡内記、一柳房次郎、大戸留次郎、柴五三郎(柴四朗(東海散士)・柴五郎の(後の陸軍大将)の兄)、根津大郎、大田原惣次郎氏等」であり、教官たちの服装は「仏蘭西風の黒きヅボンを穿き、黒き背広に赤き胴着(チョッキ)か、或は赤き巾一尺位の切れを胴に巻き、其上をバンドにて締め、帽子は仏蘭西形のもの、或は今より廿年前郵便脚夫か人力車夫抔が冠むりたる饅頭笠見た様なものを被むり」、号令は「オン、ツウ、トロアー、カアトル」だったそうです。
結局、沼間の指導が厳しすぎたため、会津藩士たちの中に「あいつ実はスパイなんじゃないか」という疑惑が持ち上がり、身に危険が迫ったため沼間は志願して藤原口(日光口、圭介と山川が守備に当たっていた)に出るのですが、そこでは圭介と折り合わず、6月には捨て台詞を残して去り、やがて庄内藩に向かうわけです。
沼間の指導が特別厳しかったのか、伝習隊の訓練というのがそんなもんだったのか、近代陸軍の「指導」なんて一歩間違うと虐めですから、きっとそんなもんだったんじゃないかなあとも思います。

さて、沼間といえば今市攻めの時の圭介を痛烈に批判したことで知られていて、板垣も「大鳥は道普請をしてから攻めてくるから守るのは容易かったが、沼間は神出鬼没で苦しめられた」と言い、「大鳥圭介=戦下手」の根拠にもなっていますが。
上記の訓練模様から察するに、沼間の不満には一理あるような気がします。それまでの立場や、各藩を渡り歩いての指導ぶりから見るかぎり、沼間という人物には「実戦隊長」格が実に似合っています。言葉ではなく態度で部下を督し、最前線で功績を上げるタイプです。けれども、たとえば部下を足蹴にする圭介というのが想像できないことからも、圭介が実戦隊長向きではないことは明らかです。現代の軍隊組織でいうならば、圭介が頭を悩ませている部分の多くは本来、幕僚幹部か師団司令部が担う仕事であり、学者・教師という経歴からしても、圭介の資質にはそちらのほうが向いていたはずです。それが最前線の指揮にしゃしゃりでてきて戦線を引っ掻き回せば、実戦隊長としてはそりゃ堪らなかったでしょう。実際問題、人材不足で圭介が前線指揮官を務める他なかったというのが現実なのですが―― そしてこの傾向は箱館戦争でも大いに発揮されてしまうのですが。
どっちが良い悪い、ではなく、単純な「あるべき立場」の違いです。同じことが、五稜郭で降伏を決断した上層部と、討死を潔しとした士官たちとの関係にも現れています。立場が違えば、見えるものも、背負うものも違う。上に立つということは時に、見たくもないものでも直視し、最善の結果のためならば自分の心情や個人の事情は後回しにせざるを得ないということです。それを同じ土俵で論じること自体が間違っているような気が、私はするのです。
……と、まあそんなふうに、最後は(むりやり)圭介弁護に繋げてみました(笑)

 (20050709)



■□■伝習隊の評価――綱淵謙譲『戊辰落日』より

『板垣退助君伝』収蔵の逸話、とのことですが、慶応4年8月20日、山入村の戦い(圭介が遅刻したやつ)の描写。
「始め戦の正に開くるや、斥候某急に玉の井の本営に還り報じて曰く、今日の敵剛強無比、意(おも)ふに是れ伝習隊なり。今市以来始めて彼と相見る。稍(や)や気を壮(さかん)にするに足れりと。君(板垣)之を問ふ、何を以て其伝習隊なるを知るかと。答て曰く、弾丸の向ふ所、鵠(こく)を誤らず、彼れ伝習隊に非ずんば、奚(なんすれ)ぞ之を能(よ)くせんと。戦了(おわ)るに及んで、其草間に散落せる弾薬箱を検す。果して伝習隊の符あるを見る。」
どうです、「剛強無比」ですよ! 「弾丸の向ふ所、鵠を誤らず」ですよ! 揚句が、こんな正確な射撃は伝習隊でなきゃできるはずがない、ですって! きゃ!(赤面)←大鳥さん参加してないじゃんとか言わないでください、だって彼が育てた伝習隊ですもの、誉められて嬉しくないわけがなかろうか!(いいから落ち着け)
まあ、状況を見たら喜んでる場合じゃないんですが。この戦争は、実は会津側は官軍がすぐ近くまで迫っているのを知らずに、とりあえず二本松を奪還に行こうや、とのこのこ出掛けていって、山入村に滞陣していたところ、お昼頃に突然敵が攻めてきたというもの。山入という地名は、私は今のところ母成周辺に見つけられずにいるのですが、綱淵氏の記述によれば、「勝軍山を下り」た石莚が戦争の舞台となっているので、そのあたりなのでしょうか。会津側連合軍は、正面が本多率いる伝習隊、田中源之進率いる会津兵と仙台兵が右翼、二本松兵が左翼という陣形を敷いて迎え撃ちましたが、主力の伝習隊が優勢に戦い敵を追撃した一方で、右・左翼は押されて徐々に退いたため、伝習隊だけが突出するかたちになってしまい、挟撃されて命からがら逃げ帰った、という顛末を辿ります。死傷およそ30人、うち士官の戦死3、4人。浅田麟之助が重症を負い、本多は退路を断たれて山林を縫って「夜四時頃」にようやく帰隊しました。(これ、ずっと朝の4時かと思ってたんだけど、それだと翌日の戦(母成峠の戦い、開戦は明方で、『南柯紀行』には「六つ半」(7時)と記されている)に間に合わないので、「夜の四つ時」=10時頃、ってことかしらん?)
取り残されて苦戦した伝習隊は、逃げた他藩に対して当然ながら怒り心頭で、戦場なんか放っぽって陣屋(今で言えば基地)に帰ると主張するのを、圭介が必死に留め、おかげで翌朝の母成峠の戦いに伝習隊は参加するのです。尤も、伝習隊が突出した理由には、敵の誘いに乗って深追いしすぎてしまったという一面もあるのかもしれません。上記逸話のように、「伝習隊=勇猛」という定評があったとすれば、人数で優る側としては、巧く誘いこめればしめたもの、という作戦は成り立ちますから。…とか、『戊辰落日』読んでて思いました。
圭介が士官の無事なのを見て泣いたのもこの戦ですが、そもそもこの戦の発端となった二本松奪還目的の出撃に、圭介は「余分な兵力もないのに陣地の外に討って出て負けたら、一気に攻め入られて国境を破られるぞ」と反対してまして、なのに会津側が頑固なもんで「おれは知らん!」と無視を決めこんでいるうちにあれよあれよと侵攻策が決定してしまい、「じゃ、伝習隊も出してね!」と言われて仕方なく本多に出陣を命令したという経緯があります。そして、結局、会津戦争は彼の恐れた顛末を(彼が知らないうちに…)辿るわけです。……なんか切ないなあ…。

 (20050702)