「菖蒲―― しょーぅぶ―― …」
表を行く物売りの声に、ああ、またこの季節が巡ってきたのだと、井戸端で野菜を洗っていたのぶは空を仰いだ。
霞が晴れてくっきりと澄んだ青。皐月の陽射しはきらきらと、こんな時世でも変わらずに目に映る総てを鮮やかに彩る。すっと両の眸を細めたのはけれど、眩しかったから、ではない。間垣の向こうからひょっこりと、弟の懐かしい笑顔が覗くのではないかと思えた所為だった。
こんな天気の朝ならば、そう、たぶん、浅川の土手あたりで蓬を摘んで、笊に盛って来るだろう。のぶはそれを搗いて蓬餅を拵えてやる。すると、丁度それが出来上がった頃に、今度は夫が御柏をたんと買ってきて、餅の山の始末に途方に暮れる羽目になるのだ。結局、余った餅は弟が包んで、世話になっている江戸の道場へと届ける。そんな年中行事が、当り前だった時代も、あった。
女子も羨むほどの白い肌を母から譲り受けた少年は、その見目にそぐわず利かぬ気で腕白だった。何をさせても、続かない。できないのではなく、やりたくないから、やらない。幼い頃から意思の堅さばかりは一人前で、家長をつとめる次兄はいい顔をしなかったが、奔放なその生き様は、のぶには少なからず羨ましかったものだ。
「侍になりたい」と言うと皆が笑うのだと、悔しげに顔を歪め、べそをかく一歩手前で踏ん張っているまだ幼い弟の真っ赤な顔を、憶えている。あの頃はまだのぶの方が背が高かったから、腰を屈め、目を合わせて、弟の頭を撫ぜてやったのだった。
『歳はお節句の生れだからね。諦めさえしなければ、屹度、願いは叶うよ。』
皐月の節句は、尚武の節句。女子の己には関係ないと思っていたその日が、のぶにとって特別になったのは、その日生れた弟が、侍になるなどと言い出したからに他ならない。分を越えた生業なぞ誰も望まぬ天領の農村で、彼はあきらかに異質だった。周囲は大人も子どもも挙って困った変わり者だと呆れ果てたが、のぶはむしろ、弟の言に納得したのだ。六々魚変じて九々鱗となる。節句に飾る鯉幟は、大瀧を上りきった鯉が龍と化すという言い伝えに基づく。だから、屹度この子は武州の田舎のお大尽の極潰しなんかでは終わらないと、それは女の直感だったのだろうか。
のぶは微苦笑を浮かべた。いつしか口癖を言葉にしなくなった腕白小僧は、代りにその両眼に願いを爛々と灯し、ただ黙々と剣術に打ちこむようになった。そうして、知らぬ間に彼女の背を越し、いっぱしに刀を差し、竹馬の友と連れ立って京に上り、とうとう本物の武士になってしまった。
「真逆に本当に、龍になっちまうなんて、ねえ…。」
昨春には大分揉めたこの日野宿も、ご赦免の出た今はすっかり落ちついている。多少の肩身の狭さはあったが、街道を行き交う人や物資の流れがある限り、名主の仕事が絶えることもない。季節はめぐり、日々の営みは続く。――ただ、あの弟がこの家へやって来ることは、二度とない。
この空をずーっと行った何処かで未だ戦をしていて、そこであの弟が大勢を指揮しているなんて、嘘のような気がした。もしや、あのとき自分が弟を焚きつけなかったなら、あの子は戦なんぞと縁もなく、今もこの家に出入りして笑っていたろうか。しかし、それは違うとのぶは感じるのだ。節句の生まれのあの子は矢張り、龍となるべくして生まれてきたに違いないのだ、と。
可愛い弟が手元を離れてしまったことは哀しいけれど。
己が努力によって、官軍に目の敵にされるほどまでに出世した弟のことは、心底から誇らしい。
今日は久々に蓬餅を拵えようか、とのぶは思った。武を尊ぶ祭を、今この時期にあの子の身内がするのは、折角静けさを取り戻したこの地に要らぬ騒擾を齎すやもしれぬ。けれど家の中でこっそりやるくらいなら、構わないだろう。菖蒲も買ってきて、軒に刺そう。
志の花を見事に咲かせたあの子の、心意気を称えて。
目尻に浮かんだものを指先で払うと、さあて、とのぶは腰をあげた。そうと決まれば、やることが山積みだ。まずは夫の尻を叩いて、蓬を手に入れる算段をしなければ。濡れた手を前掛けで拭いて、野菜を乗せた笊を抱える。そうしてもういちど、空を見あげた。
高く澄んだ皐月の空は、三十数年前に見たのと寸分違わず、青かった。
――「百瀬の瀧を昇りなば忽ち龍になりぬべき
わが身に似よや男子と空に踊るや鯉幟。」
登竜門という言葉の由来から。…武家の出じゃないのぶ姉さんが知ってたかどうかアレですが、端午の節句は幕府が大々的に祝ったこともあり、江戸期には庶民も武家に対抗して鯉幟を上げたりしてたそうなので、弟が武士になるとか言い出してりゃ流石に知ってると思います。菖蒲売りは実際に居ました。…江戸市中でのことなので、日野宿にまで来てくれたかは存じませんが(爆)
某素敵お誕生日企画のネタをぱぱっと思いついた、その副産物です。副産物のほうが先にできちゃった(笑) 肝心の方は…で、できるのかな…?(をい)
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