「あァ、終っちまうねぇ…。」
茫洋とした呟きに人見勝太郎は僚友を振りかえった。
「何がや?」
咲き誇る見事な桜の大木を背に、伊庭八郎はにっこりと一点の曇りもない笑みを浮かべる。
「祭りさね、人見サン。」
「…祭り?」
「そうさ。こちとら江戸ッ子だからね、祭りは好きさァ。終っちまうのは、さみしいねェ…。」
夕陽に染まった満開の梢をうっとり見上げて、はらはら落ちる花弁に手を伸べる。が、どうも桜を惜しんでいるというわけでもないらしい。
人見は首を傾げた。何のことだかよく解らなかった。重ねて問うても、伊庭は「何ァに、大した事じゃアないのサ」と苦笑するばかりだ。
或いは、この男の莫逆の友たる本山小太郎ならば、言わんとするところを正しく汲み取れたのやもしれない。だがその本山は、今宵の江差奪還作戦に備えて、遊撃隊二小隊とともに折戸の台場に出張中だった。
戻ってきたら訊いてみよう、と人見は思った。――無事、戻ってくるならの話だが。そして、その時に此処、松前が手酷くやられていなければの話だが。
数日前に乙部に上陸した新政府軍に対し、五稜郭本営との調整に手間取った人見ら松前守備隊は、すでに絶好の攻勢の機を逸している。此方が紛糾しているうちにも、敵はひたひたと迫っているに違いなかった。今夜の出兵は、ギリギリの決断である。遅きに失したのでは、という不安が皆の胸中に巣食っている。
もっとも、陸戦のみならばそう悪い勝負でもなかろうと人見は読んでいた。気掛かりなのは、七隻いるという敵海軍の動きだ。自分たちの所持する大砲では、敵の艦砲には歯が立たない。狙い撃ちされれば、ひとたまりもないだろう。
人見は夕焼け雲の合間にのっぺりと白く張りついた月を見上げた。伊庭の鼓舞もあり、兵の士気が高いのだけが望みだった。
明治二年四月十七日、折戸台場および松前城の攻防戦は、海からの艦砲射撃により一方的な顛末となった。旧幕軍は松前を捨て、砲弾降り注ぐ中、吉岡まで撤退した。
人見は生きていた。伊庭も無事だった。
本山は、還ってはこなかった。
あァ、いよいよ終っちまう。差し出された湯呑みを前に、伊庭は内心でつぶやいた。
木古内の攻防で深手を負った彼がここ五稜郭に運びこまれて、もうひと月になろうか。左腕を失っても気概を捨てず、船が転覆しても腕一本で岸に這い上がった男が、もはや自力で床に身を起こすことすらままならない。それでも、痛みの欠片も見せず飄々としているのが、伊庭の伊庭たる所以であった。
(こいつが江戸ッ子の意地って奴さァね…)
彼の前では総裁榎本が、悄然と立ちつくしている。苦衷と疲労とが瀟洒な男を見る影もなくやつれさせていた。湯呑みは、彼の手配りだった。
傷病人を湯の川へ落とすという榎本の方針に真っ向から抵抗したのは、伊庭自身だ。どうせ永くないことは判っている、ならばこの城郭の土になりたいと、そう言い張った。その返答が、この湯呑みである。飲めば眠るように死ねるという。明日、最後の一戦に臨む榎本らが玉砕すれば、残った者がどのような辱めを受けるか知れない。気遣いは、当然のことだった。
それでも、自らの差配で朋輩の生命を奪うことに逡巡があるのだろう。榎本は唇を噛んで俯いたきりだ。
哀れなものだ、伊庭は目を細めた。
誰が。江戸ッ子の意地すら張れなくなった眼前の男か。剣士として名を馳せながら慢心から片手を亡くし、今や襤褸屑のように転がってただ死を待つしか道のない己か。高らかな理想を謳いあげたのも束の間、走り出しもせぬうちに瓦解していくこのちっぽけな勢力か。
――否、そうではなかった。「あはれ」とは古来、心惹かれ、趣き深いさまを指す。様々な思惑を裡に秘めてこの北の大地に集い、一日一日を泣いて笑って憤って懸命に生きるひとりびとりが、今、伊庭にはこのうえもなく愛しかった。
「榎本サン。」
呼びかけた声は往時の影もなく嗄れていたが、まだ使いものにはなるらしい。よかった、と伊庭は疾うに失くした左腕で胸を撫で下ろす。日頃気風のよかった榎本があんまり殊勝なのが、なんだかたいそう気の毒で、別れの前にどうしてもこの気持ちを伝えておきたかったのだ。
「俺ァね、矢っ張り、骨の髄から江戸ッ子なのだなァ。」
榎本は訝しげに伊庭を見たが、苦しい息をおして喋る瀕死の怪我人を止めようとはしなかった。伊庭は顔を綻ばせた。――綻ばせたつもりのそれは、少し頬が歪んだだけだったけれど。
「そりゃあもう、祭りだ喧嘩だというとこう、ざわざわと血が騒ぐ。好きなのさね、賑やかなのがサ。」
どーん、どーん、という大砲の地響きは、こうして寝転がって目を閉じれば、どこか山車の大太鼓の音に似ている。そりゃアそうさ、と伊庭は思う。蝦夷という地でぶちあげた、こいつは一世一代の大祭だ。共和制だか何だか知らねェが、いきなり海の向こうの決まりごとを引っ張ってきて国をひとつ作っちまおうなんざ、正気の沙汰じゃあるめェ。俺ァ莫迦だからよくわからんが、結局は皆、祭りに集まってきたようなもんよ。
ゆっくりゆっくり、伊庭は喋った。榎本も江戸ッ子だ、祭りに懸ける思いはよく知っている。
「だからね、榎本サン、俺ァあんたに感謝してるのさ。こぉんな賑やかな、こぉんな派手な祭りは、お江戸でだってありゃァしねぇや。最後の最後で、そんなでっけェ祭りの片棒担がせて貰えたってェのは、江戸ッ子冥利に尽きるさね。」
嬉しいねェ、と眦を下げる伊庭に、榎本は泣き出す寸前のような歪んだ表情で幾度も頷いたのだった。
――祭囃子。
本当はもうちょっと中間部分がある話だったりするのですが、勉強不足で書けないまま2年が過ぎてしまったので(…)えいやっとぶった切ってみました。ちょうどSCCでYスヒサさんとお隣になった(間借り先がですが)のも何かのご縁だろう、ということで。伊庭歳じゃなくてすみません。葛生さんの中の伊庭像はこんなかんじです。池波先生の影響受けまくりです。こんなんでも許されますか。ドキドキ。
完全版ができたらSSページに昇格させようと思います(いつだ)
<ブラウザを閉じて戻ってください。>