こめかみを一筋、汗が流れた。
膝に手をついて、じっと前方を睨みつける。じりじりと照りつける真夏の太陽。割れるようなスタンドの声援。一点リードで迎えた決勝戦9回裏、無死三塁フルカウント、打順は最悪。
(――――上等だ。)
マウンド上の滝川は、ゆっくりと上半身を起こした。追い込まれたという気は正直なかった。元来、追い詰められれば追い詰められるほど、ふてぶてしく笑ってみせる男だ。大きく深呼吸すれば、周囲の喧騒も暑さも総てがすぅっと遠ざかる。視界に映るのは、打者とキャッチャーミットだけ。
(こいつを…)
滝川は手の中で、ボールを一、二度転がした。それから、セットポジションに入った。
(…打てるもんなら、打ってみやがれ…!)
大きく踏みこんだ滝川の左足が軟らかな土を抉るように踏みしめる。次いで、大会屈指と呼び声の高いしなやかな右腕が、鋭い振りから勢いよく白球を送り出した。
―――と。
わっとスタンドが揺れた。
「〜〜〜莫迦てめえ一体どこ向けて投げてんだ…!」
キャッチャーマスクをかなぐり捨てた大川が、猛然とマウンドにダッシュする。スコアボードが無死一、三塁に変わった。内角ぎりぎりを狙った滝川渾身の剛速球は、ミットではなくバッターを直撃してしまったのだ。逆転のランナーが出たところで、次に迎えるは四番打者。ただでさえピンチだったのが、輪をかけてピンチになってしまった。
「おまけに俺のリードを綺麗さっぱり無視しやがって!」
「煩ぇよ、あんな微妙すぎるコースを指示するてめえが悪ぃんだろうが…!」
「はん、エースならそのくらい軽々と投げてみせろってんだ! できねえってんなら降板しちまえ!」
「あんだと…!?」
凶悪そのものの表情でふたりは睨み合った。もはや試合中だということも、対戦相手や観客の目も、眼中にない。スポーツマンシップに則って正々堂々爽やかに戦うべき高校野球として、あってはならない暴走っぷりである、が、実はこのバッテリーには――まったくもって困ったことに――たびたび見られる光景だったりする。
(だからって、何も満員御礼の甲子園でやらかさなくても…。)
しかもご丁寧に初優勝がかかった試合ときた。ベンチで記録係を務めていた本多は、呆れて首を振った。横を見ると、監督の大鳥はすっかり頭を抱えてしまっている。ぶつぶつと何やら呟いているので耳をすますと、「胃が痛い…」と聞こえた。グラウンドに目を転じれば、とばっちりは御免被りたい味方選手たちは、外方を向いて我関せずの態度。
……やれやれ。深い溜息を吐いて、苦労症の主将は腰を上げた。
「別に難しい要求はしてねえだろうが。格別ややこしい変化球を投げろって言ってるわけでもなし、ただ俺の指定したコースに投げるだけのことがどうしてできねえ?
ンな簡単なことも理解できねえほどその頭は飾りモンなのかよ、ああ?」
「誰の頭が飾りだコラ! ってか何であそこでわざわざあんな紙一重のコース狙わなきゃなんねーんだよ、七面倒くせえ。直球で真っ向勝負すりゃいいじゃねえか!」
「あーもう鳥頭はこれだから。つい先刻その真っ向勝負でセンター越え三塁打喰らったのはどこのどなたさんでしたっけね?」
自ら伝令を買って出た本多がマウンドに到着したとき、そこでは罵り合いが泥沼化しつつあった。尤も、暴力沙汰になれば審判が介入してこれまで勝ち上がってきた努力がパァだということは流石に判っているらしく、お互い手は出していない。
…声援で賑やかなスタンドから見る分には、キャッチャーがピッチャーを励ます普通の光景に見えて――いてくれないものだろうか。本多は限りなくゼロに近い薄っぺらい希望的観測を思い浮かべた。創立間もない新興校としては、下手な評判は命取りだ。…いずれにしろ、こうなっては勝とうが負けようがこの一幕が明日の朝刊ネタになるのは避けられまいが。
とにかく、審判が何か言い出す前に、こいつらを試合に引き戻さなければ。本多は主将としての責務を果たすべく、左手で大川の肩を、右手で滝川の背を、(逃げ出せないように)がっちり掴まえて引き寄せた。背中を痛めてレギュラーを外れたとはいえ、元ピッチャーの本多の握力は強い。咄嗟に滝川が「いて…ッ」と小さく叫んだが、その様子は遠目には、「戦う後輩を熱く激励する主将の図」、にしか見えなかった。(そのあたりの計算は抜かりない。)
ふたりの顔を交互に見ながら、本多は低く抑えた声で言った。
「お前たちな、内輪揉めなら試合が終わってから幾らでもしろ。今は勝つことだけ考えるんだ。どんな方法だっていい、あと三人打ち取れ。―――まさか、できないなんて、言わないよな?」
最後は、にっこりと笑顔で締め括る。滝川と大川は思わず顔を見合わせた。一見柔和そうなこの主将が、食えない本性を隠し持っていることはよくよく知っている。100人中99人が「爽やか」と称するに違いない笑顔は、彼らにはたいそう危険なものとしてしか映らなかった。
こんなふうに言われて「できない」と言える性格の彼らではないことを、熟知しての科白だから余計に性質が悪い。それでももし、反発心を優先させて「できない」と言ったら、どうなるか…。
(うわあ…ぞっとしねえ…)
うっかり想像して、大川は顔を顰めた。「本多を怒らすな」というのは、大鳥監督も含めた伝習野球部の鉄則だ。つまり、本多が出て来た時点で、自分たちに選択肢はないのだ。
(ま、俺らとしてもこんな莫迦げたかたちで折角の夏を終わりたいわけではねえしな…)
「わかったよ…。」
滝川が溜息混じりに答えた。本多が大川の方を向く。大川も頷いてみせた。
「よし。じゃ、ここは頼んだぞ!」
信じてるからな。本多はもういちど笑うと、ふたりの肩をぽんぽんと叩いてベンチに戻っていった。
「……………。」
残されたふたりは、渋い表情でお互いを見た。ちッと大川が舌打ちして、踵をかえす。
「この続きは後だ。」
そう言い捨ててホームベースへと歩き出した大川を、滝川は「ちょっと待てよ」と呼び止めた。
「言っとくけど、俺は相手が四番だろうが誰だろうが、勝負するからな。」
「……。」
マウンドを降りかけたところで顔だけ振り向いた大川は、内心で(まだ言うか…)と正直このわからず屋を殴りたい気持ちにかられた。が、実際問題、滝川の球威がいちばん冴えるのは、直球でもある。そして、どんなピッチャーであれ気持ちよく投げさせてやってこその女房役(キャッチャー)だという自負も、彼にはあった。
暫し目を細めて滝川を睨んでいた大川は、やがて「勝手にしろ」と溜息とともに吐き捨てた。それから「…ただし、」と滝川の目の前に指をつきつける。
「俺のリードには従え。文句も出ねえくらい堂々と勝負させてやる。あと、一球でも打たれてみろ、バッテリーは解消、今後は二度とてめえの球は受けねえ。勿論、エースも降りてもらう。いいな。」
厳しい要求だったが、滝川は動じず、にやりと笑ってみせた。
「おう、いいぜ。もっとも、そんな日は絶対ェこねえけどな。」
むしろ這いつくばって失言を謝らせてやるさ。滝川の憎まれ口に、大川はやれるもんなら、と返した。1メートルの距離を挟んで、凶悪な笑みが交わされる。それから、ぱっと開いた大川の掌に、滝川のそれがぱん、と音高く打ちつけられた。
その後、滝川は宣言どおり、140キロ超の自慢の速球で、敵の中軸を三者連続三振に打ち取る。走者二者残塁で、東東京代表・伝習高校の初優勝。創部たった二年目にしての大快挙だった。
……オソマツ。
――風をうち 大地を蹴りて 悔ゆるなき 白熱の 力ぞ技ぞ
若人よ いざ 一球に 一打にかけて
青春の賛歌をつづれ ああ 栄冠は君に輝く
決勝戦第一回戦(延長15回1-1引き分け)を見終わって、気力を根こそぎ持ってかれたよーに呆然としていたとき、ふと去年の夏に考えていた「滝川・大川バッテリー」(2005年8月20日の日記参照)で「ピンチの局面」というのを思い浮かべました。…不謹慎ですねスミマセン(笑)
本当は、「今日は凄かったな!明日も頑張れ!」という感激と激励の意味を込めて20日の夜に仕上げたかったのですが、翌朝仕事があったため断念。昨日、仕事帰りに電車の中でプロット立てて、帰宅後から1日かけて書いてみました。さしずめ、「両校とも最後まで凄かったぞ!よくやったな、お疲れさま!早実は初優勝おめでとう!」(長え)ってところですかね…(どのへんが?)
現実は、高校野球で暴言吐いた時点で審判が介入すると思います(笑) あと、そんなに長くタイム取ってらんない。…上の展開だと、果たして大川がちゃんとタイムの合図を出してベースを離れたのかも不明だし(合図出し忘れてたら、三塁ランナーがホームスチールして延長突入ですよ…)。ついでに、創部2年目で甲子園は無理だと思…。(…)
あ、本多は3年ですが、大川と滝川は2年生バッテリーです。ほら、創部2年目だから人材不足で2年だろうと巧けりゃレギュラー取れるんだよ。1年生バッテリーでスタートした前年は、鳥羽伏見高校に初戦ボロ負けして、雪辱を誓っての今年だった、という設定。滝川の決め球は超高校生級の直球。いちおうカーブやスライダーも投げられるけど。1年には浅田がいます。で、この大会での伝習高校の活躍ぶりを見ていた山口(現在中3)が、来年の春に入学してくる、と。
…どう? こんなの。(どうって言われても)
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