ぞろぞろと人が歩いている。
向かって右から左へ、虚空をぬって。整然と列を成して。
たいそうな人数であるのに、気配はまるで感じられなかった。目を合わせてはならぬと思ったのは、幾つもの死線を潜り抜けてきたすえの咄嗟の断だ。慌てて顔をそむける間際、ちらりと視界を過った人々には、顔、が、なかった。
理窟ではなく、この場所が狭間であることを悟る。いや、むしろ水際とよぶべきか。この両足が踏みしめているのは此岸。そしてあちらを歩いているのは屹度、彼岸の住人なのだろう。
なぜ、どういった経緯(いきさつ)で己がこのような場所に佇んでいるのかという疑念は、不思議と湧かなかった。兎も角やりすごさねばと息を詰め、いづれ目が覚めて元の世界に戻れる時をただ待つ。夢を見ていると判っていたからかもしれない。
ただし同時に、夢にすぎないといえど、あちら側の誰かひとりとでも目が合ったが最後、己も眼前の見えない境界を強制的に越えさせられるのだということも、本能が領(し)っていた。
行列はなかなか途切れない。じりじりと焦燥ばかりが募る。仕方なく、敢えて意識を別のところへ散らして気を紛らせる。決して明るくはないが真暗闇でもないこの徒広い空間の構造はどうなっているのだろうとか、三途の川といっても水があるわけではないのだなとか、音がないというのはこんなにも静かなのかとか、ひたすらに他愛のないことを。
……と。
知覚するよりはやく、総身がぎくりとこわばった。足の裏から背筋を伝って播る―――とてつもない恐怖。
何処からともなくあらわれた二本の手、が。
(――いつの間に…っ!)
砲弾飛び交う戦場でさえ臆することのなかった足は、情けなくも忽ちにして竦んでしまった。それはおそらく、道理に合わぬ事象への根源的な畏怖だ。なんとなれば、己が両の手首の皮膚は、そこを捉えたふたつの手の感触をまざまざと知らせてくるのに、当然付随していなければならぬ持ち主の気配は、矢張り微塵も感じられないのである。
捕まってはならぬものに捕まってしまったという事実が、ひんやりとした絶望をもたらす。拘束する力は強く、ちょっとやそっとでは外せそうもなかった。誰の手なのか。知り合いのものか見知らぬ相手なのか、目の前に本体が居るのかそれとも手だけなのか。惑乱する思考のなか、持ちまえの好奇心がのそりと頭をもたげもしたけれど、確かめたりしたならそれこそお終いに違いない。
そう簡単に引きずり込まれてなるものか。萎縮する心を奮い立たせ、こうなったらせめてもの矜持に何があっても震えはすまいと、固く瞑目した。
だが、いつまで経っても、覚悟していた強引な引力は訪れなかった。
手首は相変わらず確り捕まれている。此方が逃げようと腕を引けば、さからって誘うように軽く引き戻される。しかしそれは踏んばらずとも抗し得る程度の勢いでしかなく、抵抗さえしなければ、正体不明の手はただ大人しく握っているだけ、なのだ。
途方に暮れて放置して、暫時。天啓は、夜空にひらめく稲妻の如く唐突に降ってきた。
待っているのだ。
この手は、自分が首肯するのを待っているのだ。
そうと気づいた途端、怖気は霧が晴れるように失せた。代わって、口中に複雑な苦味が広がる。此方の斟酌したのが知れたとみえ、死者は握った手を軽く揺らして催促をしてくる。唇を噛み、緩々と首を振った。そうするよりほか、なかった。
(おれ、は、―――)
閉じた瞼の裏に浮かんでは消えるたくさんの面影。ある者は恨めしげに、ある者は優しく、己を麾く。哀しさと申し訳なさと懐かしさとが縺れあって、心を責める。幾度となく噛み締めた息苦しさ、遺される痛み。
ここで一つ頷けば、楽になれるのかもしれない。その先には平穏が待っているのだと、信じるのは容易かった。それは生き恥を晒す身には甘美すぎる誘惑だ。それでも、
(おれは、共には行かれぬ…。)
譲れない一線を、自分はとうに通過してしまっている。もう、引き返せはしない。
すまん。
ぽつりと呟いた自分の声で、目が、覚めた。
薄暗い牢獄を、大鳥はぼんやり眺め渡す。狭苦しい場所にささやかな己の所在を定めて一夜を過ごす男たち。もうだいぶん慣れてしまったそんな生活からの脱却が目前であることを、昨日、かれは知らされた。
特赦による釈放。投降し東京に護送されてきたときには考えもしなかった、生きてこの牢を出るという未来。
運命は、ときにとんでもない徒をしかける。医学を修める積りが砲兵術の大家になってしまったのもそうなら、学者として出仕したはずがいつの間にやら軍人になっていたのも、そう。部下を率いて江戸を抜け出してみれば全脱走兵の首魁にかつぎ上げられ、かつての教え子と戦う羽目になった。果ては自ら俎上に載せた命を、あろうことか敵に助けられるとは。
大鳥にしてみれば、いつだって必要に迫られて限られた選択肢から最善をえらびとってきただけだ。然れどかれは、最後に意味を持つのは結果でしかないことも、自覚していた。何をどう言い繕おうと、あの戦に心身を捧げた者たちにとっては、自分が未だこうして在るという現実そのものが手酷い裏切りに当たる。閉ざされた場所で月日を送るうちに少しずつ芽生えてきた慾の存在も、後ろめたさを弥増した。
(…だけどおれは、嬉しいんだ…。)
生きて、家族に見えることが。まだ、己が何かを為せるということが。新しい時代をこの目で確かめられるということが。
自身の度し難さに呆れつつ、しかし何と罵られようとも、せっかく存えることを得るのであれば、拾った生を投げ捨てる気は大鳥には毛頭ないのだった。
高窓から垣間みえる空は、暁闇にくらく沈んでいる。生涯わすれえぬ長い夜明けとなりそうだ――。長嘆息して、目を閉じた。
明治五年正月五日、戊辰の開戦から丸四年。
大鳥圭介は、生きていた。
――「このみちをたどるほかない草のふかくも。」
前半部、私の実話@函館帰りの晩。…といったらオカルトっぽい?(笑)
私はたまにこういう体験をするのですが、圭介の詩に、「一夜夢逢九泉友。醒来愧我尚偸生。(意訳: 夜、夢の中で死んだ友に逢った。目覚めれば、自分がおめおめと生き長らえているのが恥ずかしい。)」というのがあったので絡めてみました。お迎えの手の主は、誰と特に想定してはいません。夢の中がそうだったからね。誰か特定の個人、ではないような印象もあり。尤も、誰か特定を思い浮かべて読んで下さっても構いませんが。私としては、誰かさんは生者に誘いをかけたりするような人ではないと思ってますので、そういう考え方はできませんでした。や、むしろあの人なら蹴り飛ばして追いかえすくらいするんじゃないかと。
生きるということは選択し続けるということ。選んだ結果が思わぬ方向へ転がったとしても、選び続けるしか道はない。圭介を見ていると実感します。そして、転がり続けることも決して悪い事ではないと思える。彼が転がり続けてくれたおかげで、日本はめざましい発展をしたのですから(側面的真実)。そんなわけで、さぁレッツ転がれ。人生なんて先が見えないから面白いんだよ(何の話でしたっけ?)
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