猿が出るのだ、という。
「…は?」
唐突にそんな報告を受けた大鳥は、顔を顰めた。
「それはまあ、出るでしょうなぁ。」
傍らで鷹揚に首肯する山川を一瞥し、すぐにまた部下へと視線を戻す。彼らが布陣している藤原は、急峻な山々に囲まれた谷間の宿場だ。兵を配置しているのはさらに村外れの山の中だから、猿が出たっておかしくはない。銃や砲弾を始終ぶっ放しているのならばともかく、現在は言わば戦闘の端境期のようなもので、近隣には一時的に静けさが戻っている。
「―――だな。出るだろうな。」
大鳥も頷いた。だが、それが何だというのか。大鳥と山川は現在、今市を再攻すべく、図面を広げて布陣を検討している真っ最中だ。猿ごときにかかずらっている暇などはっきり言って、ない。
そうきっぱりと態度に出してやると、大隊長のくせに自ら報告に来た大川は、ふう、とひとつ、これみよがしな溜息を吐いてみせた。
「出るだけなら別に構やしないんですけどね、こいつがやたら凶暴でして。貴重極まりない握り飯に始まって、釣った魚に飛び掛って奪うわ、村人から貰い受けたばかりの卵は笊ごと掻っ攫うわ、豆の味噌煮まで喰い散らかしてくれるんですよ。ぴったり飯時を狙ってくるのがまた、抜け目がないというか憎たらしいというか。今日は到頭、歩兵が三人齧られました。」
「……齧られたのか…。」
「ええ、齧られました。」
「そうか…。」
果たして人間は旨いのだろうか――咄嗟に大鳥はそんなことを思った。紛れもない現実逃避である。その心中を一言であらわせば、「またか」となる。
というのも、ここのところ連日、大鳥は戦と全く関係のない苦情への対応に追われているのだった。
この近辺を本拠地にしたのが閏四月の初めで、今は五月もどん詰まり。気っ風と度胸が売りの伝習兵どもは、いざ開戦となれば大層頼りになる連中だが、如何せん根っからの江戸育ちだ。鬱蒼とした山に四方を閉ざされた辺境で、戦闘も気晴らしもなく、三食代わり映えのしない献立という生活では、不満が爆発するのにそう時間はかからなかった。
かといって戦の準備を誰かが代わってくれるわけもなく、現在の大鳥は内と外の二正面作戦を強いられているも同然だ。こんな時、間に立って巧く雑事を捌いてくれるはずの本多は、傷の療養で戦列を離れたまま。山川の機転で会津との関係が好転したのがせめてもの救いだが、そもそもが好きで引き受けた総督の肩書きでもない。
(このうえ猿の対処法だと―――?)
やってられるか。大鳥の中で何かがぷつりと切れた。
「適当にでかい音でも出してりゃ、警戒して寄ってこないだろ。」
肩を竦め、左手をひらりと一閃。冷たく言い放つが早いか、意識を膝元の図面へ返す。それでも、
「あ、でも無闇に銃をぶっ放すのはナシだぞ、弾が勿体ないからな。」
間髪入れず付け足すあたり、彼も伝習隊士たちの扱いに慣れたというべきだろう。
しかし、伝習隊士の側でも、大鳥への対処には相当慣れていた。大川は、この話はもう終わり、という上官の無言の圧力を、あっさりかい潜ってのけた。
「金目のものでもあればともかく、ろくに音が出るものがないことにゃ効果はありませんよ。叫ぶとか、竹筒を打ち鳴らすとかは、やってみましたが。」
イタチゴッコで如何にも、と嘆息とともに首を振る。
「そろそろ沼間さんが切れそうだってんで、こうしてお知恵を拝借仕りに参上したというわけです。」
大鳥の肩がぴくりと揺れた。
本多不在の第二大隊で大川と並んで大隊長をつとめる沼間慎次郎は、旧幕での最終階級は歩兵頭並で大鳥より下だが、こうと思ったら誰が相手でも一歩も引かず主義主張を通す。これまた戦になれば頼もしい男なのだが、歯に衣着せぬというよりもはや毒舌でしかない物言いと思い切りのよすぎる行動で、これまでにも数々の厄介の種を蒔いてきた。会津では間者と疑われて命の危険まで感じておきながら、一向反省する気配はない。要するに放っておくと何をするか解らない、一種の危険人物というのが大鳥の認識である。ついでに、どうも大鳥とは反りが合わず、何かと意見が食い違う。
その、沼間が。
「今度は何をするって…?」
ゆうらり、と音がしそうな動きで大鳥は部下を振りかえった。上官の関心を引くことに成功した大川は、軽く眉を上げてみせる。
「いえね、いいかげん暇だし胸壁築くのにも厭きたから、どこか適当な敵陣に奇襲でも掛けたらどうかとかそんな話を、」
「待て待て待て…!」
していたかもしれません、と続く予定の科白の末尾を、大川は要領よく呑みこんだ。滝川と彼と三人で居た折に、冗談交じりにせよそのような話題が上らないでもなかったから、少なくとも嘘ではない。何より、ここのところの猿騒ぎで沼間の堪忍袋の緒が切れそうなのは事実だ。この面子で後始末をする羽目になるのはどうせ自分なのだから、先に手を打っておこう、というのが大川なりの建設的な結論だった。
「ちなみに、沼間さんはとりあえず滝川に任せてきました。」
――が、いつまで保つでしょうねえ。大川が敢えて音にしなかった文言を正しく聞き取って、大鳥が蒼褪める。滝川も沼間に負けず劣らず短気で激情家で、ついでに無駄にノリがいい。今ごろ嬉々として奇襲作戦立案に勤しんでいるやもしれない。にしても、
「だから何で猿が出るって話が奇襲作戦に発展するんだ…!?」
おれにどうしろと。大鳥は心の底から本多の存在が恋しくなった。
うがーっと頭を掻き毟る上官を、大川は一見何も考えていなそうな平坦な表情で見守り、次いで、ちらりと隣に坐す山川を窺った。自分とそう年齢も違わないように見える会津の若年寄殿は、黙然と、涼しい顔で扇子などあおいでいる。
(…相当だなあ)
己を棚に上げて大川はぼんやり思った。大鳥の反応は予測の範囲内だったが、山川のこの反応は正直、予想外だ。何を考えているのかわからない。だがそこでそんな気持ちをおくびにも出さないのが、大川の大川たる所以。兎も角も此方の会話に介入する意志はないらしいと判断し、話を続行する。
「そこで、ですね。ひとつ提案があるんですが。」
淡々と切り出された提案とやらに、大鳥は苦虫を百匹くらい纏めて噛み潰したような表情を浮かべた。経験上、こういう時の伝習士官どもの思いつきは大抵ろくでもないと知っている。できれば聞きたくない。それこそ東照宮の彫り物のように、「聞か猿」を実践したい。しかも、いつも彼らの手綱を締めて回る本多は、くどいようだが怪我の療養で不在だ。
だが、放っておいて沼間に突出されても困るのである。すなわち大鳥に選択肢はなかった。無論、目の前のこのやたら知恵の働く部下は、そうと判って話を持ちかけている。
(なあにが「お知恵を拝借」だコノヤロウ…)
親の敵でも見るような恨みがましい目で大川を一睨みして、渋々大鳥は促した。
「云ってみろ。」
が、すぐさま後悔することとなる。
「兵どもの暇つぶしと憂さ晴らしとを兼ねて、猿の捕獲作戦を決行しては如何でしょうか。」
「―――憂さ晴らしはともかく、捕獲してどうするつもりだ…。」
「うーん、食えないですかね?」
けろりと言い放つ提案者は、「山の中で夏でも思いのほか涼しいから鍋にでもすれば、食膳に変化が出て一石二鳥じゃないかと」と、さも妙案とばかりに真顔。
げんなりした。
「食ってみりゃあ判るんじゃないか……?」
もう何でも勝手にやってくれ。がっくり肩を落とした大鳥は投げ遣りに呟いた。こんな山の中でこんな下らない問題に対処するために自分はわざわざ江戸くんだりまで出てきて、幕府に仕官したのだろうか、そう思ったら人生すべてが空しく思えてくる。そんな上官の心情なぞ慮る様子もなく、真面目なのだか不真面目なのだかいまいち判じ難い部下は、やはり真顔で「成る程」などと合点している。
大鳥は無意識のうちに、助けを求める視線を秀才の誉れ高い会津の青年に向けた。それまで黙って聞いていた山川は、大鳥のまなざしを正面から受け止めると少し考えるような素振りを見せ、それから扇子をあおぐ手を止めて、叩き上げの伝習士官へと向き直った。
そうして、言った。
「ここらあたりでは、猿は山の神の使いと言われていたはずだよ。あんまり大っぴらにやるのもどうかな。」
嗚呼お前もか。大鳥が床に撃沈する。思わぬ後方支援を得た大川は、にっと笑って模範的な敬礼をしてみせた。
「承知しました。では、こっそりとやりましょう。」
「宜しく頼む。」
山川が坐したまま、やはりフランス式の敬礼を返す。大鳥も先刻の「勝手にしろ」で了承してしまったも同然だから、猿狩り作戦は晴れて(?)決行と定まったわけだ。
「必要なものがあれば、できる範囲で提供するよ。いつ始めるのかな?」
「準備が出来次第、すぐにでも。…人手は恐らく第二のみで足りると思いますが、事によると第三に協力を要請するかもしれません。あと、いざというときの村民への説明をお願いできればと。」
「判った、検討しておこう。」
床に沈没したままの大鳥を他所に、山川と大川は「できる軍人」らしくてきぱきと打ち合せを進めていた。もういやだ、という大鳥の呟きは、小さすぎて残念ながら誰の耳にも届かなかった。
こうして開始された第二大隊総出の猿狩り作戦は、一説によると第三大隊の有志も加わってたいそう大掛かりなものとなったと伝わるが、大川が余程巧く立ち回ったものか地元にも記録は一切残っておらず、確かなところは今以て判らない。
ちなみに、件の沼間はというと、狩っても狩っても減らない猿との根競べに早々に厭きたとみえ、月が代わってすぐに適当な理由をつけて若松へ引揚げてしまった。その「理由」について、大鳥は自身の日記に「故ありて」と短く記しているのみである。
――さるかにひと合戦。
※某K瀬様の日光実体験(猿がホテルに侵入して大騒ぎ)から発展した、「伝習隊も猿害に悩まされたに違いない」という妄想の産物。「猿と戦う大鳥&伝習隊」という趣旨のネタだったんですが…書いてるうちに、「大川と戦って敗北する大鳥&何気にあなどれない山川」という内容に変わってました…。あれえ?
※別名、「沼間、急遽会津にUターン、の真実」。(笑)
※そんな沼間さんを理解するために徳富猪一郎(『人物管見』)を読みましたが、すげえなちょいちろー。納得しちまったよ、「野生人」沼間。ウケちゃったよ、「百分の一信長」。天才的な表現力だ…!
※圭介自身は沼間をどう思ってたんだろう。『南柯紀行』に書かれた理由ってば意味ありげすぎ。この人もなー、案外沸点低いからなー…。←圭介
※藤原宿がどのくらいのサイズだったのか、結構頑張って検索したんですが調べきれませんでした。ので、近所の大内宿の調査結果を参考にしました。…海野宿(北国街道)なんかは昔行ったことがあるんですけどねー。藤原は(会津から来ると)ちょうど高原峠を越えて開けた場所に出る最初の宿場ですし、それなりには開けてたんだと思いますが、今見ると、やっぱり立派に山の中なんですよね。だだっ広い空に慣れた江戸っ子にとっちゃ、やっぱり「山…!」ってかんじだったんだろーなー、とかそんなことを思いつつ。
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