『箱館の女王様』の柴宮将太郎さまにお誘いいただいて、「会津・小松の彼岸獅子を見に行こう」ツアーに行って参りました。
葛生さんはかれこれ15年ほども昔、猪苗代にスキーに行った事はありますが、会津若松は生まれて初めて。
会津藩についても、二、三の小説を除けば、新撰組絡み(京都の事とかハジメとか)と大鳥さん関連でしか事情を知りません。
これは事前に山川と会津について勉強しておかねば、と、資料を揃えておいたにもかかわらず、結局はあまり目を通さず行き当たりばったりの道行きとなり。
…案の定、会津も山川もハジメすらすっ飛ばして、徹頭徹尾、「鳥歳」とだけ喚き続けるアイタタな道中と相成り果てました…。(黙)
撮ってきた写真だけ見ると、ちゃんと彼岸獅子見物に行ってきたように見えるんだけどね…。(遠い目)
そんなわけで、ここから先は完全腐女子向けの旅行記になります。(一部かなり濃ゆいです…)
御覚悟がおありの方のみ、ずずいっと矢印に沿って進んでくださいまし。
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●2005年春会津紀行 - 「会津のど真ん中で鳥歳と叫べ!」
【一日目: 3月19日】
2005年3月19日、朝9時に東京駅集合。が、初対面だというのに、ほぼ9時ジャストに待ち合わせ場所に辿り着く、どんなときも油断たっぷりな葛生さんです。しかも、目印にとお約束していた佩刀大鳥サマ(前に日記で紹介したヤツです)をカバンから出し忘れているという…(抱いてますと宣言していたのでした。←その約束もいい歳した大人としてどうなのよ…;;)
失敗を補填する心積もりで、行きの新幹線に乗るやいなやテーブルの上に大鳥サマをちょこなんと乗せ、刀(実は耳掻き)を柴宮さんに抜かせてみたりしてご満悦の葛生さんですが、でも忘れちゃいけません、MAXやまびこの自由席は3人掛けです。隣の人、どう思ったんだろうなあ(汗)
行きの電車の中では緊張でがちがちになってまして(だって柴宮さんと一緒なのですものーっっ;;)、その割にはべらべらとハジメについて語ってました(笑)
(ついでに、道中ずーっと私のカバンからは大鳥サマが外を覗いておりました。…恥というものをいい加減知ろうね葛生さん?)
郡山まではあっという間でした。新幹線を降り、磐越西線に乗り換え。雪がちらついていまして、ホームに出ると少々肌寒さを感じましたが、私は比較的寒さには強いので、「こんなもんなんじゃないですか〜」と暢気に強がっていました…この時点では。
しかし、トンネルを抜けるとそこは雪国だった。
車窓は見渡すかぎり山も平野も真っ白。昨夜会津地方に雪が降ったことは天気予報で知ってましたが、まさかこれほどとは。愕然としつつ会津若松で下車すれば、もう「寒いの得意」なぞとは言って居れない状況です。東京がもうかなり暖かかったので、インナーにウール一枚着れば上着は春物コートで充分だろうとたかを括っていた己を、今更恨んでも仕様がない。よくよく考えれば、子供のとき猪苗代に来たのって、そういや春スキーだった、よな…。(←正真正銘の莫迦)
それでも到着時はまだ陽が出ていたのでマシだったことが、夕刻が近づくにつれ、はっきりとしてきました。いやもう寒かった…(泣)
道中の予定は、柴宮さんにお縋りして、というか有体に吐けば面倒を押しつけて(←…。)、全面的にお任せコース。まずは飯盛山へ、白虎隊士の悲劇をお勉強しに行きます。その道すがらも歩道は中途半端な雪掻きのおかげで凍りついた箇所が幾つもあって、何度も滑りそうになりました。道々、柴宮さんのこれまでの史跡巡り遍歴なぞを伺ったのですが、上野から日野まで実際に歩いてみたというお話には度胆を抜かれました。いいい一生かかってもこの御仁には敵わねぇ…!と思いましたのことですよ…。
飯盛山の麓には白虎隊の記念館と伝承史学館があって、順番に見ました。…どちらも、その、白虎隊についてというよりは、会津戦争全般についての展示が大半を占めていたような気もしつつ;;
しかもそこで大鳥さんの写真に出くわし、ぎゃあと悲鳴をあげるオオトリスキーが二人。いったん箍が外れてしまえば後は転がる石は加速するばかりで、「どうして圭介ってあんなに可愛いんですか!」と散々騒いでしまったのでしたが、いい態度だったよな本当…。(反省)
そうそう、柴宮さん評「かなり微妙」との飯盛山のエスカレーターは、想像以上にかなり微妙でした。(苦笑)
麓の茶屋で軽く腹拵え(朝からバナナ一本しか食べてなかった)、暖を取って、(ついでに白虎隊記念館で入手した会津藩と新撰組について書かれてるパンフレットの内容の微妙さにツッコミをかましつつ)、お次は会津武家屋敷。本当ならバスで移動の予定だったのを、あまりの寒さにタクシーを呼びます。周囲を見回せば皆、当然のように冬支度。…我々だけが薄着で、あまりの不憫さ(脳の出来のな…)に涙を誘われずにはおれません(笑)
会津武家屋敷は、会津藩家老の西郷頼母邸を復元したもので、広大な屋敷内を見て歩くことができます。
式台のところから、等身大人形がお出迎え。屋敷のところどころで同じような人形が歓迎してくれましたが、最後の最後、一族自刃の場面の再現シーンは、屏風はしっかり逆さになってるし、何というかこう、ぞっとくるものがありました…。
式台の次に見る片長屋は、独身藩士の住居だったらしく、八畳+四畳で結構広い。ふと、「箱館奉行所の長屋もこんなかんじだったんでしょうかねえ」と、鳥歳シチュエーションを思い描いたりして、本当に油断も隙もない葛生さんの脳味噌です。長屋の半分は資料館になっていて、幕末の動乱期に会津がどういう運命を辿ったかをわかりやすく解説していました。…んが、会津の戦場説明図(敵味方の布陣とその変遷を、凸と矢印で表してある)の前で、「ね、ね、柴宮さん、これって大鳥さんの軌跡ですよね、ホラ、この二本松に向かう途中で引き返してるヤツ。」 ……結局は圭介関連でツッコミをかまさないことには気が済まないらしい…。(でも、猪苗代山中徘徊とかもちゃんと辿ってあるんですもの、これが萌えずにいらりょうか!)
しかしこの日、いやこの道中最大のネタは、この直後に転がっておりました。屋敷の隣に、蔵を模した資料館(会津歴史資料館)がありまして、狭いながら種々の資料が展示されているのですが(「七年史」とか「会津戊辰戦史」とか、欲しいなーと思ってるものもありました)、その中に新撰組について説明した一角がありまして。
そこの土方さんの、説明が、ですね。とんでもないことになってました。
さあ、勇気のある人は反転してみよう…!(純粋な土方ファンの方は止しておいたほうがいいかも…冷汗)
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「土方歳三、新選組副長。 (中略) 土方、額兵隊を曳て後殿す。故に異国橋間まで敵退く。 (中略) 亦一本木を襲に敵丸股間を貫き遂に戦死したもふ。(立川主税戦争日記)」
はい、どこが問題だか判った人、手ェ上げてー!
判らなかった人、もいちどトライしてみます?
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「土方歳三、新選組副長。 (中略) 土方、額兵隊を曳て後殿す。故に異国橋間まで敵退く。 (中略) 亦一本木を襲に敵丸股間を貫き遂に戦死したもふ。(立川主税戦争日記)」
ええ、その、戦死の原因なんですがね、「股間」ってなによ、「股間」って…!? (滝汗)
柴宮さんと二人で、「聞いてないよそんな話…!」と一頻りのたうちまわりました。(心情的に)
その後、「それが本当なら死因はショック死だったに違いない」というネタで大盛り上がり。「土方先生!」「大丈夫ですか!」「(わりと確りした声で)ああ、ちょっと撃たれただけ、…だ……。(患部を確かめて絶句、突然ふら〜っとひっくり返る)」「副長…!」「確りしてください、傷は浅いですよ!」「いや…もう無理…絶対無理……(がくり)」「土方先生…!」
きっと若いときの罰が当たったんだね、なんてゲラゲラ下品に笑ってたんですが……すみません我々が阿呆なんですちゃんと解ってますよ。(解ってさえいればいいというもんでもない)
因みに、帰宅して確認した(そりゃーもう大慌てで確認したさ…笑)『新選組日誌(下)』に引用されていた『立川主税戦争日記』の記述では、島田日記やなんかと同じようにちゃんと「腰間」ってなってました。なーんだ。(ちょっと安心、ちょっとガッカリ←…。)
(でも、誤植にしても凄すぎないかそれ…。よりにもよって箱館政府随一のイイオトコ、土方さんだぞ。書いた人、疑問に思わなかったんか…。)
ちなみにこの資料館には売店コーナーがあって、地元ならではの資料やグッズが売られていたのですが、そこで見かけた『救え会津・来援の勇者たち』という本の表紙をよーく見ると、新撰組とか奥羽越列藩同盟に交ざって、「旧幕府伝習隊」とある。旧幕陸軍とか脱走歩兵とか諸藩とかじゃなくて、伝習隊名指しですよ。「まままさか大鳥さんがいたりするのか…!」と再び大興奮して見本誌を捲る我々の目の前に、でかでかと大鳥さんの写真が…!
なんとなんと、母成の布陣図や伝習隊戦死者名簿なども含め、10ページに渡って「同胞の志士・旧幕府伝習隊」という記事がありました!会津側資料だと圭介って結構みそくそ言われるので(苦笑)、あんまり期待してなかったのに!勿論即行買い。帰宅後じっくり読んでみたところ、記述は至って淡々としているものの、伝習隊の戦死者について細かく記されていて、なんだかとても嬉しくなりました。
そんなわけで大興奮のまま、佐々木只三郎氏のお墓(武家屋敷内にある)に申し訳程度に手を合わせ(ごめんよ佐々木さん…!だって上記の出来事で頭一杯だったんだよ…!)、それではいよいよ今宵の宿へ向かおうか…というところで、そうは問屋が卸さないのが葛生さんの史跡巡り。
バスの時間が、余裕で30分以上待ちだったんです。そして我々の恰好は、くどいようだけれど春物。夕方の空はすっかり日が翳って、風の冷たさが文字通り身にしみる。タクシーを呼ぼうにも、周囲にタクシー会社の連絡先を書いてあるようなものは見当たらず(携帯文化なんて大嫌いだ…!←電話ボックスがなかった)、そして武家屋敷は閉館の時間。
すでに電気も落とされた館内に、スイッチの切られた自動ドアを無理矢理こじあけて侵入した葛生さん、遥か奥のほうで閉館ミーティング真っ最中のスタッフさんに向かって大声で叫びました。「すみませーん、タクシー呼びたいんですけど、電話番号わかりませんかーっ!?」
いやもう本当にもう、油断するにも程があります。恥知らずもいいとこです。
とはいえ、結局無事に電話番号は貰えて、予定どおりの夕食までに宿に辿り着けたので、まあ終わりよければ総て良しってことで!(まてこら)
宿についてからがまた、今度こそ遠慮会釈もないめくるめく鳥歳ナイトだったわけなんですが、その話はまた次回。
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