「あれ、ミス・スメラギは?」
プトレマイオスのブリッジにいるべきはずの人影を見出せず、ロックオンは目をしばたたいた。
「あ、おかえりなさーい」
「おかえりなさい」
「よう」
「お疲れさまっした!」
「おう、ただいま」
口々に帰投をねぎらうクルーたちに片手で応え、ハロをぽんと向かって右側のオペレータ席に投げてやりながら、さてどうしたものかと思案する。着艦後まっすぐ報告に来たため、まだパイロットスーツのままだ。
本来、マイスターの帰投報告は面と向かってしなければならないものではない。着艦作業に入る前に通信で顔を合わせるし、ミッション完了の報告もすでにヴェーダを介して提出してある。事実、刹那やティエリアはわざわざスメラギに顔を見せになど来ず、そのまま自室に直行してしまうのが常だった。ロックオンがどんな小規模なミッションや訓練の後でも毎回まめにブリッジに顔を出すのは、かれの主義というか、性分である。
やはり直接「ただいま」を言って「おかえり」を返してもらいたいと思ってしまうのだ。立場を鑑みれば、甘いなと、われながら呆れるけれども。
そしてそんな自分のささやかな我儘ともいえる習慣を、つい先刻デュナメスのスクリーン越しに会話したばかりの戦術予報士はよく解っていた。今までどんなに忙しくとも、ロックオンの帰投時にスメラギがブリッジを不在にしたことはない。
「なに、何かあったの」
空いた艦長席を親指で示すと、リヒテンダールとクリスティナが意味ありげな目配せを交わした。
「今しがた、変なメールが来てね。それで…」
「変なメール?」
「たすけてくれって言ってきたんすよ。アフリカだかどこだかから」
「それが、すっごい長いメールなの! 政府に弾圧されてて食べるものもお金も何もかも足りなくてどんどん人が死んでるから援助してほしいとかって」
「あー…」
ロックオンは心当たりの文面を脳裡に思い浮かべた。途上国援助を口実にした詐欺の一種に、そんなのがあったはずだ。無辜の個人や支援団体を装って無作為に択んだメールアドレスに一斉送信する。同情心から金を振り込む善意をカモにする手口は、数世紀にわたって使い古されたものだけれども、未だに引っかかるお人好しが絶えないのも事実で。
と、あれ、とロックオンは首を傾げた。それとスメラギの不在が結びつかない。自慢じゃないが自分たちCBメンバーには必須教養として、一般レベルよりよほど優れた情報リテラシーが備わっている。
「よくあるバルクメールだろ?」
一般公開していないはず(あたりまえだ)のCBのアドレスに届いた点には不審が残るが、戦術予報士が血相変えて対策に走るほどのことでもないはずだ。
「それがどうやら違うらしいぜ」
肩をすくめたラッセに、そうそう、とリヒティが操舵士席から身を乗り出した。
「何せCB名指しっすよ」
「ネットワークに流されたのをヴェーダが拾ったみたい。レベルとしては参考情報程度だったけど」
あきらかに面白がっているリヒティに対し、クリスはどうやら些か不機嫌らしい。手元のパネルを操作しながら鼻の頭に皺を寄せた。
「差出人はアフリカの某国の、野党支持の牧師だとかって名乗ってるんだけどね。義援金でもいいし、物資援助でもいい。暴虐な政府をやっつけてくれたらもっといい、なんて、政府軍の基地の地図まで添付されてるのよ」
「へえ…?」
「見てみる?」
クリスの手招きに頷いて覗きこんだ問題のメールには、写真やグラフなども豊富に使われ、いかに政府が残虐非道で罪もない人々が数多く犠牲になっているかが切々と綴られていた。
「どうかお慈悲を、ねえ…」
ロックオンは腕を組んだ。確かに、変なメール、だ。状況としてはCBとガンダムを利用しようとする輩がまた出てきたというだけのことだが、利用しようとする主体の性質が決定的に異なっている。少なくとも一見するかぎり。
「この差出人の裏は?」
「確認とれてます。地元ではそれなりに名の通った尊敬される指導者のようです」
ハロを抱いたフェルトの冷静な指摘に、碧翠の双眸が眇められた。
「つまり、本気の依頼ってことか」
神の裁き、正しき未来への導き手。常識を凌駕する武力で世界を圧倒するCBをそんなふうに見ようとする――見たがる精神作用が国際社会の一部に生まれることは、最初からヴェーダの予測の内だった。絶望の底に蹲る心はおしなべて、闇を切り裂く力を救いと勘違いして縋る傾向がある。その正体や善悪など考えない。そんな余裕を持たない。元来多くの宗教において「神」とは時に人智の及ばぬ一方的な方法で悪と断じた存在を滅ぼし去る力だ。
主よ、憐れみたまえ。わが罪を浄めたまえ。
神に仕える牧師が聖句を唱えて、私設武装組織に「敵」の殲滅を依頼してくる世界。
できすぎた皮肉に、ため息すら出てこない。
「あたしたちはNGOじゃないっての」
「非政府組織って点ではあながち間違っちゃいないすけどね」
「有名税ってやつだろ」
そんな呆れを多分に含んだ会話でやりすごしてしまえれば、いいのだけれど。
(ミス・スメラギには荷が勝つだろう)
ロックオンは自室で酒を煽っているに違いない戦術予報士を思った。割り切っているはずの自分でさえ、舌にじわりと広がるいやな苦味を感じるくらいだから。いちど強く目を瞑り、ひらく。
「あれ、もう行くんすか」
「いないんじゃ、仕方ない。後にするさ」
「了解。スメラギさん戻ってきたら伝えときますね」
「頼む。じゃ、ハロ、またな」
「マタナ、マタナ!」
人工的な音を立てて閉まった扉に背を預け、重い息を吐いた。ひどく疲れていた。
縋った「神」から救いを与えられなかったとき、人がどうするのか―― その答えのひとつのかたちが、CBだった。
「ロックオン、…っと」
スライドする扉を開けたところで、アレルヤは慌てて立ち止まった。
床面に設えられたディスプレイの発する光にのみ照らしだされた蒼白い空間に満ちる、音。幻想的な――繊細に丹念に織り上げられた、ひどくうつくしい旋律。哀しみと希望とがまじりあったような、不可思議な。ひとの、歌声。
「あ」
一方の壁に凭れて床に座りこんでいたロックオンが、焦ったように顔を跳ね上げた。旋律が途中でぶつりと無残に断ち切られて止まる。ぱあっと部屋に明るさが戻った。
つい今しがたの侵し難い雰囲気が嘘のような、機能面に特化した室内は、見慣れたブリーフィングルームだ。
「すみません……お邪魔してしまったみたいで」
「いや、ロックかけとかなかった俺が悪かった。……何か用か?」
長い前髪を掻き上げるようにしてアレルヤを見上げてくるロックオンも、もう、いつもと変わらない。見た目だけなら。最年長のマイスターは、本心に蓋をするのがとても巧い。
「これ、借りていた本。読み終わったので返そうと」
ヴェーダに訊いたらここだというので、と申し訳なさそうに差し出せば、
「悪かったな、わざわざ」
そこで右手を伸べる、ということは入っても構わないのだろう。アレルヤはそう判断し、床を一蹴りでロックオンの傍まで移動した。ごく自然に本を受け取って、ロックオンが尻をはたいて立ち上がる。
「面白かったです」
「そっか、そりゃよかった。次も何か貸そうか?」
「そうですね、何かお薦めがあれば、是非」
オッケ、と唇を横に引いて笑む仕種を見届けてから、アレルヤはふと足下に眼を落とした。ディスプレイの端に名残る、曲名と、演奏者の名前。
「奇麗な曲ですね」
個人的な領域に踏みこむつもりは毛頭なかった。ただ知りたいと思っただけだ。神秘的なまでに澄みきった音の、正体を。途絶えてしまった旋律の先を。
「ん? ああ……」
「ミ、セ、レ…?」
「ミゼレレ。……十七世紀のキリスト教の祈りの歌だよ」
われを憐れみたまえ、って意味だ。つぶやいた声に、アレルヤは一瞬の鋭い視線を隣に投げる。
ロックオンが仮にキリスト教圏の出身であるとしても、その容姿から類推される条件には適っている。同様に、刹那はムスリムの習慣を持っていた、はずだ。そう遠くない過去にはきっと。それくらいのことならば、アレルヤはもう随分と以前に気づいてしまっている。
ただ。
"ガンダム・マイスターのロックオン・ストラトス"が祈りという言葉を口にすることには、違和感があった。ましてやこんなふうに独り、祈りの歌を聴くなど。
「じゅうなな……。詳しいですね」
それでも、アレルヤは物問いたげな左眼を前髪に隠して、そこだけに反応する。
「――――これが、とても好きだったひとが、いたんだ」
過去形だった。アレルヤはその意味するところを的確に理解した。バーに腰掛け、爪先に円を描くディスプレイの文字に向けて細められたロックオンの碧い眸は、とても優しい。大事なひとだったのだろうと思えた。
「そうですか…」
アレルヤは瞼を伏せた。そうして、耳の奥に先ほど触りだけ聞いた和声を呼びおこしてみた。
今にも折れそうな儚さと、それでもたしかに生きのびてゆく力強さを同時に秘めた、調べ。たゆたう海のような。どこまでも広がる宇宙のような。
今はもう居ない誰かが、愛した旋律。
「でも、曲は残るんですね」
ぽつりと、そんな言葉が口を衝いた。
「え?」
「六百年以上の時を越えて、歌い継がれていくんだ。――すごいな」
たとえば自分たちが居なくなっても。世界に平和が訪れても。
六世紀もの遠い昔に誰かが祈りを、願いをこめてつくった旋律は、続いていく。きっと。
「………聞くか?」
問いは、確認というよりは誘いの響きを帯びていた。目を開けてロックオンを見る。自分の腰掛けた隣を指の振りで示すシーグリーンの双眸は、ひどく優しいものを見る彩を浮かべていた。
アレルヤは微笑んだ。
「ええ、是非」