それに気づいてしまったのはたぶん偶然で、そして必然だった。
きっと、自分によく似た症状があったからだ。一年のうち、特定の日に、どうしようもなく不安定になる。
最初は、はっきりとは判らなかった。ただ、いつも頑ななまでにブレない大きなあかい眼が妙に落ち着かなくゆらぐ様子に、既視感めいた引っ掛かりをおぼえただけだ。翌日には子どもは常のふてぶてしいほどの落ち着きを取り戻していて、あ、とひらめいたのはすでに何日もが経過した後だった。
どこかで見た気がすると思ったのも道理で、呆れたことにそれは、毎年あの日が巡るたび鏡の中に見ているものに酷似していた。
それが、一年前の、ちょうど今日だ。
(お節介だってのは、わかってるんだけどな)
東京の一角に聳える高層マンションを見上げ、ロックオンは吐息する。よくない癖だった。みつけてしまったものを、見ぬふりでやりすごせない。
杞憂かもしれないとも考えた。あのときは何か別の理由があっただけかもしれないと。けれど、後にも先にもただいちど子どもが垣間見せた弱さを看過することは、どうしてもできなくて。白む空をひとしきり睨んだ挙句の、お節介である。
自己満足だと、ティエリアならば冷ややかに切り捨てるだろう。あの氷の刃を剥き出しにしたかのような一切の迷いのない声で。
(迷うのが悪いことだとは、俺は思わないが)
"年少組"の、本人たちは全力で否定するだろうそれは共通点だ。迷わず、ためらわず、目的に突き進む。正義の存在を、信じている。
子どもの特権てやつだな。ちょっと笑って、ロックオンは左腕に抱えた差し入れという名の口実を持ちなおした。歪なかたちに膨らんだ紙袋が、がさりと鳴った。
「なんだ」
玄関を開けた子どもは、事前連絡もなしに訪れたロックオンの姿に驚いたふうもなく、ただすこし迷惑そうなのを除けばいつもと変わりない例のひたすら無愛想で可愛げのない態度で出迎えた。が、
(やっぱりか)
狙撃手の鍛えぬかれた観察眼は一目で見破ってしまう。正直すぎるあかい双眸の奥、隠しきれずにある動揺を。焦りと―――怯え、を。
「べーつにー? 近くまで来たからさ。どうせおまえまたろくなもん食ってないんだろうし、リーダー役としてちょっくら陣中見舞いに」
なにくわぬ顔で笑いかければ、刹那は興味ないというようにすっと目を逸らした。
「無用だ。帰れ」
「おまえね、年長者にその態度はないだろう。いくら俺でも傷つくぞ」
「帰れ……!」
押しころした低い咆哮が、のんびりしたロックオンの口調を遮った。めずらしく激情も露わに頭ひとつ上背のある相手をぎっと睨みあげた表情は、苛立ちを帯びて険しく、獰猛でさえあった。しかしロックオンはただ、碧翠色の双眸を細めただけだった。
かれは、この発育不良の子どもがその気になれば素手で簡単に人を痛めつけ、殺すことだってできる――できてしまう、ことを知っている。接近戦闘となれば、いくら体格で勝るといえ本質が狙撃手のロックオンでは敵にはならない。それでも、今の刹那がどれほど声を荒らげようと、これっぽっちも怖いとは思わなかった。
刹那が自分を傷つけるわけがない、という自惚れなどとはまったく違う次元で。
怖く、なかった。
(だって、まるで、)
ロックオンは困ったようなため息を内心に噛みころす。指に白く筋が浮くほど強くノブを握りしめていることに、この子どもはきっと気づいていない。
ひとことで譬えるならその様はまるで、首筋の毛を逆立てて威嚇する捨て猫だった。脅えて、震えて、傷つけられてなるものかと懸命に虚勢を張って四肢を踏んばっている。野良ではない。野生にうまれおちて本能のままに生き抜いてきた逞しさではなく。裏切られ絶望して、それでも捨て切れない愛情を求める気持ちを抑えこんで、耐えている。
ロックオンはゆっくりとまたたいた。普段なら軽くやり過ごせる些細なことがひどく堪えて、周囲の何もかもが鋭い刃となって弱った心臓を貫く、そういう日が、瞬間があることなら、知っていた。日々たくさんの新しいことを憶え、旧い記憶を脱ぎ捨てて生きているはずだのに、どういうわけか喪失の記憶だけは年を経るごとに鮮明になってゆく。
十年間くりかえしてきた。だから、わかる。
たとえばかれが、十四歳のあの日からいつまでも逃れられずにいるように。
(きょうはたぶん刹那の―――刹那、が、生まれた日、だ)
正しくは、いま刹那・F・セイエイと名乗る子どもに永劫消せない傷が刻まれた日。それまでの、刹那という名ではなかった子どもの日常が、壊れた日だろう。
何があったかは知らない。暴く気は端からなかった。ただ、馴れたはずの喪失に突如として牙を剥かれて途方に暮れる気持ちには、いやというほど身に憶えがあったから。
居心地のよい孤独にまもられて安堵しながら、心の深層では誰かに抱きしめられたいと、何も聞かず話さずにただ抱きしめられていたいと、そう願ったことなど何度でもあるから。
(そうか、だからか)
前触れもなく理解したのは、動機。ほうっておけないと、どうしてあれほどまでに気に懸ったのか。
(俺が大人で、こいつが子どもだからだ)
ずるい、大人だから。
考えるより先に身体が動いた。ドアの縁に右手をかけると同時に靴先を隙間にすべりこませ、そのまま右半身をねじこむ。多少強引でも無理に閉められることはないとわかっていた。責任感の強いこの子どもは、マイスターの戦闘能力に影響を及ぼしかねない行動は本能的に回避する。
案の定、刹那はしまったという表情で怯んだ。ノブから指が離れた、その不意をついてロックオンはするりと玄関に入り、後ろ手にドアを閉める。オートロックがかかる硬い音に、刹那がぎり、と奥歯を鳴らした。
「刹那」
呼ぶ声にはじかれたように小柄な身体がひるがえる。走り出そうとする手首を、すかさず伸ばされたグローブの掌がリーチの差を生かして捉える。
「触るな…!」
鋭く振りほどいた手の甲がロックオンの抱えた紙袋を強く叩き、いちばん上に乗っていた林檎がふたつ、ごとりと音を立てて床に転がった。はっとして刹那が足下に目をやった、一瞬の隙をロックオンは逃さない。
「やめ……ッ!」
放り出された荷物が床で鈍い抗議の叫びを上げた。掴みなおした二の腕をぐいと引き寄せて、踏鞴を踏んだところを背後から抱きすくめる。もともと体格が違うから、しっかり抱きこんでしまえば如何に体術に優れていようと抜け出せはしない。
「離せ、俺に触れるな…!」
「いやだね」
「ロックオン……!」
懇願は、ほとんど悲鳴に近かった。意地でも抜け出そうと暴れる手足を、ロックオンは力をこめて押さえつけた。子どもが受けるだろう痛みに気を回す余裕は、なかった。
目の前にある癖の強い黒髪。石鹸の匂いと、かすかな汗の匂い。直に皮膚に伝わる熱いほどの体温。酷いことをしている、そう思う。お節介どころではない、こんなのはただのエゴだ。かこつけた自己憐憫。自分の願望を押しつけているだけの。
(ほっとけねえ、なんて――)
欺瞞だった。巧妙に、自分すらも誤魔化して。
(そうだ、ほんとうに抱きしめられたかったのは……)
ぎゅっとかき抱いた腕の中で、獣が喉を鳴らすのに似た低い唸り声が床を這った。直後、ぱたりと抵抗が止む。おや、と訝しむ間もなかった。
「ぐ……ッ」
鳩尾を正確に狙って繰りだされた肘鉄。手加減されたものでも息は詰まって、拘束する力が緩んだところを逆に手を取られ、足を払われる。視界が回って、背中から床に。
「いっ…!」
落ちた。
咄嗟に受身を取ったためフローリングにぶつかった肩胛骨の痛み以外さしたる被害はなかったが、マウントポジションを取られるには充分だった。両腕を捩じ伏せる掌はちいさくとも、容赦がない。訓練を積んだ兵士の前に、大人とか子どもといった括りは何の意味も成さない。
敗北に、ロックオンは抗わなかった。殴られても仕方ないことをしたのだ。しずかなまなざしを上方へと向けた。そして、目をみはった。
怒ったような、それでいて今にも泣きだしそうなあかい眸が、至近からロックオンの眼中を睨みつけていた。
「おまえの所為だ」
かすれた低音がささやく。血の気のひいた唇がぎこちなく動いて、絞りだすような必死さで。
「おまえの、所為だ――…!」
(ああ……)
掴みしめられた手首の痛みが他人事のように遠ざかった。パンドラの箱だ。わかっていたのに、わかっていなかった。致命的に見落とした。いちど開けてしまった蓋は慌てて閉めても、二度と元には戻らない。
喪ったぬくもりを取り戻すことなど、決して叶わないのに。代わりなど、どこにもいないのに。
知っていたのに、
(俺が、まきこんだ)
目を伏せた、左耳のすぐ横を風が吹きぬけて、だん、とフローリングが鳴った。
「おまえが……ッ!」
荒れた息。刹那の怒りは、悲しみは、正しい。賢い子どもは、共依存の行き着く果てなどろくでもないと、ちゃんとわかっている。
(ああ、だけど―――)
俺はずるい大人だから。
ロックオンは目を開けた。ろくでもないとわかっていても求められるのは嬉しかった。縋りつくような指の力に、ぽっかり開いた胸の空洞は身勝手に温もった。
年齢だとか、床の上だとか、そもそも玄関先じゃねえか、とか。放り出された紙袋の中の牛乳パックの運命だとか、そんな理性が脳裡を過ぎったのも束の間で。
自由を取り戻した左腕が、のろりと持ち上がる。癖のある髪をぐしゃりと掻き撫でて、そのまま覆いかぶさる背中に回せば、刹那の顔が手酷い裏切りに遭ったように歪んだ。
「ああ、そうだ。俺の所為だよ」
その頭を胸元に引き寄せて、ロックオンはわらった。跳ねた黒髪の向こうに見えた天井の白さを、生涯わすれないだろうと思った。