空を見上げる。
海のただなかに浮かぶ孤島の上にひろがる空は、どこまでも果てしない。果てしなく続いて、あてどもない。
聞こえるのはただ、波の音。
鳥の囀り。
風そよぐ木々の葉擦れ。
清らかなせせらぎ。
だれもいない砂浜で、あるいは緑ゆたかな森の中で、ロックオンはしばしばそうやって空を仰いだ。砂の上に寝転んで、岩の上に片膝を抱えて、大木の幹に背を預けて、頭上の青を、流れゆく片雲を、ぼんやり眺めて待機中の暇を潰した。
そういうときは、普段にぎやかなかれの相棒もじっと黙って、隣に転がっていた。
昔から空を眺めるのは好きだった。かれの故郷もまた、空が広かった。なだらかに連なる丘陵をやさしく覆って、空はずっと彼方まで続いていた。ところどころに浮かんだしろい雲と、胡麻つぶみたいに点々と草を食む羊の群れの遠近で、途方もないその広さがよくわかった。
かれはそうおとなしい少年というわけではなく、良くも悪くも普通の子どもだったが、空を眺めている間だけは静かだった。
飽くことがなかった。
北国の空ははるか高みまでふかい群青に澄みわたっていて、あの空の向こうにいつか、行かれるだろうかと少年のかれは夢想した。空の果てに何かすばらしい発見があるような気がしていた。
とうとう西の地平に太陽が沈んでしまって、夕闇に追い立てられるように家に帰れば、夕食を用意してかれを待っていた母親はいつも、心配するじゃないのと小言を並べた。かれは笑いながら謝罪し、それから大好きなアイリッシュシチューを頬張るのだ。
(ああ、いい天気だ―――)
同じ空を見るという行為のはずだのに、あのころと今との落差は、すさまじい。冷めた頭でロックオンはそんなことを思う。あたたかな記憶は、もはやかれの心に何の感慨も呼び起こさない。
そんな時期はとうに超えてしまった。喪った世界への懐旧の情は、今のかれには不要のものだ。その胸の奥底にひっそりと抱くのは、すべてが瓦解したあの瞬間。握りしめた拳に滲んだ、どす黒くよごれた血の色。燃えるような怒りと憎しみ。
――― そして、もう二度と繰りかえさないという、固い決意。
ふと思いついて翳した掌は充分に大きいおとなのそれで、黒いグローブに守られた長くしろい指が記憶に残る母のものと酷似していることをかれは知っていたが、その指の為す技は母のものとも、母が望んだものともひどく乖離していた。飽かず空を眺めた後のかれを待ち受けるものは、冷たいトリガーと撃ち抜くべき標的のみだ。
(あの、空は、何処へ、)
これ以上ないほどにずれてしまった己の立ち位置を思い知らせるかのように、見上げた先の空はかつて見たそれと異なっている。青の色味が薄く、やや霞んでいる。どこまでいっても地平線とくっきり分かれていた故郷の空と違い、ここの空はやがて曖昧な水平線に溶けて海と混ざってしまう。
ロックオンは目を眇めた。ぱたりと落ちた手が、砂をもてあそんだ。
今、かれは空どころか、成層圏を越えた宇宙をも自在に飛び交うことのできる翼を手に入れた。ガンダムという優秀な機体は、単独での成層圏突入さえ可能にする。広い、広いと思っていた故郷の大地より、はるかに大きな世界をも知った。
それでも、少年のかれの心が欲しがったものは、まだ見つからない。
見つかるあてもない。欲したもののかたちすら、もう漠然としてしまっている。
きっと、あの奇麗だった空は、もう、何処にもないのだ。たとえ故郷の土を踏んで同じ場所に立ったとしても、今のかれの目では見ることは叶わないだろう。ロックオン・ストラトスと名乗る今のかれには。
ロックオンは静かに翡翠色の眸を閉じた。
波の音に、鳥の歌声に、風の囁きに、耳をすます。平穏そのものの空気。瞼の裏の光の残像が落ち着くのを待ってから、ゆっくりとひらく。―――何も変わらない。視界を埋めるのは無限にひろがる透明度の浅い空。
その空へ向けて、ロックオンは右腕を伸ばした。かつてのように何かを求める掌ではなく、親指と人さし指とを真っ直ぐ立てたかたちで。
片目を閉じ、呼吸をととのえて、指先のそのまたさらに先の高みにひたりと狙いを定める。
一瞬の間。
「ばん!」
戯れに銃声を模した声を上げれば、それまでおとなしくしていたハロが、
「メイチュウ、メイチュウ!」
かれの遊びにつきあって跳ねた。くくっとロックオンは笑った。
空は青く、晴れわたっていて、海のただなかに浮かぶ孤島はひたすらに平和だった。次なるミッションの連絡は、まだ、来ない。