その部屋はがらんとして、やけに広く見えた。艦内の個室など主に寝るための場所でしかなく、スペースはぎりぎりまで削られているというのに。
刹那は両眼を細める。
自分のそれと寸分違わぬ簡素な設計の室内は、とても奇麗に片付けられていた。人の体温が感じられない。そしてその事実こそが、ここで眠り、ひとときを過ごした人物の、たしかな痕跡だった。
かつて何かの用事で訪れたこの部屋は、持ち主の性格を如実に反映して雑然としていた。たとえば、作り付けのベッドの枕元に無造作に重ねて置かれた二冊のペーパーバックであったり。椅子の背に放るようにかけられた私服のジャケットであったり。デスクの片隅に出しっぱなしになっているウィスキーの小瓶であったり。
自分の部屋とは全く趣きの異なる生活臭あふれる有様に、刹那は思わず眉根を少し寄せて、そんなかすかな表情の変化すら目敏く見とがめたかれは、悪戯がバレた子どものように舌を出して首をすくめてみせたのだ…。
いま眼前に広がる光景はまるで別人の部屋だ、と刹那は思う。それほどにかれの痕跡が見当たらないことが、逆にかれの明確な意思を示している。
覚悟のほどを。
二度とここに帰ってくることがなくても構わないように――たぶんそれは毎回、出撃のたびに繰りかえされていた習慣だったのだろうけれども。
(おまえは何を考えていた)
通常、ナンバーロックがかかっているクルーの個室に、許可なく他人が立ち入ることはできない。刹那がここに入れたのは、個室の持ち主の意図によるものだ。時限式のメールで、かれのアドレスにドアロックの解除コードが送りつけられたからだ。
(何を、考えていた…?)
テキストメッセージには、ルームナンバーと解除コードしか記されていなかった。だから、これもまた出撃のたびに用意されていたことなのかどうか、刹那に知る術はない。ただ、自分がかれの個室を訪れることがかれの望みなのだと理解したから、刹那は来た。
かれの意図をたしかめるために。
ひとわたり冷静に観察し終えてから、刹那は室内に足を踏み入れる。一歩、また一歩。慎重な足取りで、かれの領域へ――かれのものだった領域へ。
その歩みが、ぎくりと凍りついた。
視線がデスクの上、畳んだハンカチの中央に置かれた、きらり、と光るものに釘付けになる。呼吸が止まる。ゆっくりと、あかい眼がみひらかれた。
それは、一粒のガラス玉。エメラルドグリーンの。
ビー玉。
異国の響きのその名をかれに教えたのは、刹那だ。それをかれに与えたのも、刹那だ。
黒いグローブの指先が丸いガラスの玉をそっと摘みあげて、おなじ色の眸の前に翳してみせたのを、憶えている。
南国の太陽にきらめく直径二センチの球体を愛おしそうにみつめる、少年のような無邪気なまなざしを。
誕生日プレゼントだと告げられて嬉しそうに綻んだ、その口元を。
それをかれにやろうと思った理由を言った途端に真っ赤に染まった、その表情を。
すべて、憶えている。昨日のことのように。
ひゅうっと息を吸いこむ音で、刹那はわれにかえった。肺が生きるために発した抗議。何度か深呼吸をして、唾を呑んで、それから意思のちからを総動員して硬直した足を動かす。あと、三歩。
慄える指で拾い上げたビー玉は、ひんやりと、照明灯の白い光を反射してかがやいていた。つるりとした表面には、瑕ひとつなく。
(大事にする、とおまえは言った……)
言葉のとおり、大事にしていたのだ、かれは。刹那が、かれの眸のようだと言ってかれにやったビー玉を、常に目に留まる場所に置いて。
何もかもを片付けて戦いに赴くときも、これだけは大切に残して。
―――だって、おまえが憶えててくれるだろ。だから、いいよ。
呆然と立ち尽くす耳の奥に不意によみがえった声は、わらっていた。
「………ふざけるな…」
刹那はぎり、と歯軋りすると、右手につめたいガラス玉を握りしめた。激情のままに床に叩きつけようと拳を振り上げ、寸でのところで耐える。食いしばった歯の間から獣のような唸りが洩れる。振り上げた腕がぶるぶると震え、やがて絶望をまとって徐々に下ろされた。
荒れた息遣いに肩が大きく上下する。
「ふざけるな……ッ!」
拳に白く筋が浮くほど強く強く握りこんで、刹那はビー玉を胸元に抱きしめた。両手で。
まるでそれが、かれそのものであるかのように。