「あ、猫」
アレルヤが言って、足を止めた。つられて立ち止まったロックオンがかれの視線を追うと、道の端のアザレアの植込みの陰に一匹のトラ猫が座っていて、こちらを見てにゃあんと鳴いた。
長い尻尾がぱたりと揺れる。首輪はしていない。けれど濃いグレーと黒の毛並は艶やかで、人間を恐れるふうもなかった。
「野良かなあ」
「迷いっ子かもな」
アレルヤは中腰になって片手を差し伸べ、ちちち、と口の中で音を立てながら猫に近づいていく。猫はきょとんと首を傾げ、続いておもむろに前足、後ろ足の順に伸びをすると、するりとアレルヤの足元に擦り寄った。
「わ、」
アレルヤは嬉しそうに破顔する。しゃがみこんで恐る恐る手を伸ばせば、猫は容易くやわらかい毛並をかれに許した。首の後ろを撫ぜてやると、にゃおうん、と甘えた声で頭を手に擦りつけてくる。尻尾がゆらゆらと宙に揺れる。
「かわいいなあ…」
「顎のさ、下から頬にかけてのあたりを撫でてみな」
「ここですか」
ロックオンの言うとおりにアレルヤが手を滑らすと、猫は気持ちよさそうに目を細め、ごろごろと喉を鳴らした。そのままころりとアレルヤの左足の上にひっくりかえり、白い腹もあらわに一度、二度と寝返りを打つ。前足がきゅ、きゅ、と交互に宙を踏みしめて、そのたびにピンク色の肉球がアレルヤの手に押しつけられた。
「懐かれたなあ、おまえ」
「敵するに値せず、と判断されたんじゃないですか、きっと?」
苦笑まじりのロックオンにアレルヤはそんな冗談でかえして、そうっと猫を抱き上げてみる。ペットなどとは無縁の人生だ、お世辞にも巧くはないと自分でわかる抱き方だったが、猫はおとなしくアレルヤの屈んだ膝の上でまんまるく抱かれて、またにゃあんと鳴いた。
「ほんとに、かわいい」
それにあったかい。ともすればきつい顔立ちを今は穏やかに和らげて、アレルヤは艶やかな毛並に頬を擦り寄せる。陽射しはあるとはいえ二月の風はまだ冷たく、生きものの温もりが心地よかった。
と、猫がふと顔を上げて、アレルヤの鼻の頭をぺろっと舐めた。
「うわ!」
ざらりとした生あたたかい舌の感触に、アレルヤは思わず首をすくめる。それから、
「あ、ごめん」
突然の叫び声に吃驚したのか、ぴくりと耳をそばだてて緊張した猫に、謝罪した。ロックオンが噴き出した。
「なんですか」
「や、だっておまえ、猫の構い方もよく知らないくせに、いっちょまえにそいつを待遇してるからさ…」
「……変ですか?」
「変っていうか……ふつうはもっと動物扱いするもんだろ、最初は」
「そう、ですか?」
アレルヤは首を傾げた。なにしろ動物と触れ合った経験がほとんどないから、ふつうの基準がわからない。そのままの姿勢で腕の中の猫を見下ろせば、猫もまた不思議そうに同じ方向に首を捻った。ロックオンが再び噴いた。
猫が、何がおかしいのかというようにロックオンを見て、ぱたりと尻尾を振る。アレルヤもロックオンを振り向いた。
「…なんだよ?」
ロックオンはすこし離れたところ、最初に歩みを止めたその位置で立ったまま、アレルヤと猫がじゃれるのを見ていた。もっとこっちに来ればいいのに、とアレルヤは思う。会話や態度から察するに、ロックオンは猫の扱いを心得ていて、ちゃんとかわいいと思っているようだ。
「ロックオンもどうですか?」
すごく懐っこい子ですよ、と勧めたのは、だからアレルヤにとっては自然な流れだった。
けれどロックオンは困ったように笑って、俺はいいよ、と言った。
「でも、」
「それより、なあアレルヤ、はやく部屋行こうぜ」
アレルヤは、ぱちりと目を瞬いた。ロックオンらしくない物言いだった。かれがこんなふうに誰かの言動を遮ることは、珍しい。
「ロックオン…?」
ロックオンはただ笑うだけだ。葉の落ちて骸骨みたいなプラタナスの枝が地面に落とした陰の中に佇んで、何かをやわらかく噛み潰すような曖昧な笑顔で。
「アレルヤぁ」
猫のように甘えた声を出されて、アレルヤは猫を静かに地面に降ろした―――ごめんね、と謝りながら。
透徹した冬の空気に晒されて冷えきった身体を、互いの体温が溶かしていく。アレルヤのそれはロックオンよりほんのすこしだけ高い。よく鍛え上げられた、しなやかなサバンナの獣を思わせる肢体。骨と筋肉がなめらかに連動して生き生きと動く。
その首に腕をまわして引き寄せて、ロックオンはひそりと笑む。
「どうしたんですか」
問いかけるアレルヤの声はほんとうに怪訝そうだ。
「なにがだよ?」
悪いなと思いはすれど、答える気は端からないので、ロックオンはくつくつと機嫌のよい笑いではぐらかす。
「だって、随分と積極的だ」
「なぁんだよ、俺が積極的なのはだめかー?」
「そういうわけでは、ないけど……」
言いよどむアレルヤの唇についばむだけのキスを落として、ロックオンはがっしりした肩に凭れかかった。同じ背恰好のおとなの男ひとりぶんの体重を預けてもびくともしない、肩に。
弱いものは、要らない。アレルヤの肩越しにゆっくりと夜の帳が降りていく窓の外を眺めて、ロックオンは内心につぶやく。俺のこの手は護るためのものではないから。俺では、護ることはできないから。護らなくてもいいもの、護る必要のない存在がいい。それだけの強さを持った相手がいい。そう、目の前のこの青年のような。
「…ロックオン……」
途方に暮れたような声を出したアレルヤはすぐに、
「じゃあ、大丈夫ですか」
そんなふうに質問を変えてくるあたり、だいぶ自分の扱いをおぼえたようだ。ロックオンは微笑した。
「ああ―――大丈夫だよ、俺は」
だっておまえがいるから。とは、口にはしない。代わりに、背中にまわした腕にわずかに力を加えて、言った。
「はやく、春がくるといいな」