ぬかるむような重たい微睡のなかに、かれはいた。
戦場で鍛えられた知覚がそれでも周囲の様子を把握しようと律儀に触手を伸ばし、けれど生ぬるい温もりの心地よさに負けて途中でくたりと萎んでしまう。少なくとも、どことなくざわついた空気に自分に対する害意は感じられない。ならば、いいか、と。
投げてしまえる立場では、たぶん、なかった。なかった、はずだ、自分は。
「………つな、」
半分役目を放棄したかのような聴覚は、断片的にしか音を拾い上げない。水の中で聞くように遠く曖昧な、ひとの声、の、欠片。ぼんやりと拡散するやわらかなテノールが自分に向けられたものであることは理解できたが、意味までは掴めなくて。
なんだ。おまえはだれだ?
気配を探るべく五感を働かせようと試みて、また失敗した。だめだ、と首を振る。否、振ったつもりで実際には身動ぎすらできていない。ひきずられるような厄介な眠気に、思考が定まらない。
おかしい。こんなふうになることなど、滅多にないのに。あってはならない、のに。
「……な、せつな」
こんどは声と同時に世界が揺れた。肩を、軽く揺すられたのだと気づいたのは、二拍の後だ。そんなにも接近を許していて、なぜ自分は覚醒めない。生死に関わる切迫した疑問すら、螺旋を描いて沈んでゆく。
目蓋が、重い――。
「おーい刹那ァ。んなとこで寝てると風邪ひくぞー?」
と、さすがに拙いと本能が警鐘を鳴らしたか、突然するりと纏まった言葉が耳殻に滑りこんできた。
初めて捉えた意味のある言葉。ああ、そうか、と不意に得心する。せつな、というのは自分の名だ。刹那・F・セイエイ。機動兵器ガンダムを駆って世界から紛争を根絶するための存在。ガンダム・マイスター。
その名を知り、刹那、と自分を呼ぶ者は、限られている。
「刹那ってばー…。……あーだめだこいつ、熟睡してやがる」
ため息をこぼす気配を、すぐ近くに感じた。困ったような、呆れたような。でも、そこに厭倦の念はない。この気配の、声の主を、刹那は知っている。よく、知っている。
これは、警戒する必要のない相手、だ。
「しょうがねえな……。あー? ああ、うん。そだな。……や、それはちょっと…。うー…でもなあ。……やっぱやめとくよ」
耳障りのよい声の主は、幾らか遠くの誰かと勝手に話して、勝手に納得して、それから刹那の傍を離れていった。いった、と思ったらややもせず戻ってきて。
ばさりと。
何か、布のようなものが。
「おやすみ、刹那」
微苦笑をまぶしたテノールと、掛けられた毛布の上からぽんぽんと背を優しく叩く手の存在に、刹那は目を閉じたまま口元を少しだけ綻ばせ、そして――。
ぱちり、と開いた視界に最初に映ったのは、よく見知った人物の驚いた顔だった。
「あ、っと、ええと……」
碧とも翠ともつかない透明度の高い眸が、狼狽えて瞬く。パーソナルカラーのグリーンを基調とした制服の首元で跳ねる栗色の癖毛。
「……なんだ」
声が普通に出たことに安堵したことは、自分の胸の裡のみに留めておく。
「…いや、特に用があったわけじゃないんだが……、わるかったな」
やわらかなテノールは一瞬口ごもった後、苦笑交じりに言って遣した。
「脅かすつもりはなかったんだ。ほんとだぜ? ただ、まあ、忠告めいたことを言わせてもらえば、こんなところでうっかり居眠りしてると風邪ひくんじゃねえかってな」
おどけたように肩をすくめてみせる、仕種がもたらす懐かしさを、刹那はゆっくりした動作で立ち上がることで振り捨てた。
「ああ。そうだな、起こしてくれて助かった。礼を言う」
休憩室のひとつでニュースを見ているうち、つい、うとうとしてしまったらしい。最低限の要員しか乗せていない上にイアンが留守のトレミーでは、メカニックの知識のある刹那やティエリアは貴重な人材だ。マイスターとしての役割以上を求められることも多く、気づかぬうちに疲れが溜まっていたのだろう。
「少し、自室で休むことにする」
「そのほうがいいぜ」
何せ、またいつ敵さんがやってくるかわかんねえからな。戸口へ向かう背中で聞いた声に、刹那はもう惑わされなかった。なぜなら、かれはもう、居ないのだから。
ここにいる男は、刹那が自分で迎えに行った、かれの弟。別人だ。
「けど、あんたでも居眠りなんて油断することがあるんだなぁ。ちょっと意外だったぜ」
シュン、と音を立てて開いた扉の縁に手をかけて、刹那は首だけで振りかえってちいさく微笑った。
「ここは、俺たちにとって家みたいなものだからな」
ここでは安心していて構わないのだと、その昔教えてくれた存在があったから。やわらかい刹那の表情に面食らったのだろう、二粒の碧翠色がまた瞠られるのを、刹那はひどく落ち着いた気持ちで一瞥して部屋を出た。
そう、わかっていた。
別人だと。
わかっていると、区別できていると、思っていた、のに。
粒子ビームの掩護とほぼ同時に通信回線を介して届いた、ノイズ交じりの声。
「刹那…! 大丈夫か…!」
心臓が、跳ねた。