急に手元が暗くなって、あれ?と顔を上げるのと、ぽつりと最初の水滴が端末を弄るグローブの右手の甲に落ちるのと、どちらが先だったろうか。
「やべっ」
慌てて立ち上がった時にはすでに手遅れだった。たちまち滝のような豪雨が烈風とともに叩きつけ、あたり一面に真っ白い飛沫のカーテンを引いて視界を閉ざす。
「ハッチクローズ、ハッチクローズ!」
一瞬で濡れ鼠と化した己の有様に茫然と立ち尽くすロックオンの代わりに、甲高い合成音声が賑やかに叫んで、こんなときでも抜かりのない優秀さを存分に発揮した。とはいえ、そこは自動開閉装置の常で、全開にしてあったハッチは徐々にしか閉まってはくれない。その間にも大粒の暴風雨は容赦なくコンテナ内に吹きこみ、ガコンとハッチがロックされる音でロックオンが我にかえった頃には足元に立派な池ができあがっていた。
(うわあ……)
外界を閉め出すと同時に点灯した照明がつまびらかにした惨状に、頬がひくりと引き攣る。ガンダムが防水仕様で本当によかった。さもなければ各部ジョイントから何から徹底整備する羽目になっていたところだ。CBの傑出した技術力にしみじみ感謝して、それからロックオンは慌てて顎を跳ね上げた。
「ハロ、無事か!?」
「ヘーキ、ヘーキ!」
いちおう防水だが精密機械の相棒は、要領悪く逃げ遅れたマイスターを後目にとっくに自力で避難を完了していた。横たわるデュナメスの小山のような胸部の上でぽんぽん跳ねるオレンジ色を確認してほっと一息、濡れそぼった長い前髪を掻き上げたロックオンは、さて片付けに取り掛かろうかと改めて辺りを見回して――途方に暮れる。
どこから手をつければよいものやら、コンテナの中は嵐が通り過ぎたようという比喩表現をまさしく具現化した状態だった。
自分同様びしょ濡れの端末、これはまあガンダムやハロと同じで防水加工を施してあるから、ともかく拭いて乾燥させれば何とかなるだろう。だが、床に広げていた工具やケーブルは数インチの水底にすっかり沈んでいるし、暴風に引き千切られ吹き飛ばされた椰子の葉やらハイビスカスの花弁やらが所在なげに水面に漂い、壁にもデュナメスの巨体にもべったり貼りついている様はもう、無残としか言いようがない。不幸中の幸いは、収納が壁面に固定されているため吹き曝されても棚が取散らかる事態は避けられた点だろうか。
(何にせよ水が捌けてから、だな、こりゃ……)
やれやれ。
ロックオンはがっくり肩を落とした。溜息一つ、ばしゃばしゃと水を踏み分けてコンテナの奥へ向かう。デュナメスの陰になって風雨の難を逃れたツールボックスの上に端末を置き、抽斗から引っ張り出した乾いたタオルで水気を拭ってから、ふと天井を睨んだ。水没した工具を救出しに戻るという選択肢はしかし、一考してすぐさま放棄した。無駄骨とまでは言わないが、面倒だ。排水が終了するのを待ったほうがよほど賢い。
もっとも、この水浸しでは相当の時間がかかるだろうが。
耳を澄ませば、屋根を忙しく打つ雨音に雑じってゴポゴポという音が聞こえる。排水機構が懸命に仕事をしている証だが、水位に目立った変化は窺えないのが悲しい現実である。
「参ったなあ……」
端末を拭いたタオルでそのまま雫の滴る頭も乱雑に掻き回しながらロックオンはぼやいた。
カリブ海に浮かぶこの孤島の気候特性なら、知識としても経験上もよく知っていて、だからスコールの襲来に遭うなんて迂闊といえばこれ以上迂闊なこともないのだけれども。
けれども、だって、とてもよい天気だったのだ。やわらかな青空にぽつぽつと雲が白く浮かんで、常夏の太陽の下、海原を渉ってきた涼やかな貿易風に椰子の梢がさわさわと揺れて。昨日までのミッションの現場がどんより曇った湿気の多い土地柄だったことも相俟って、つい羽根を伸ばしたい気分になったって誰に責められる筋合いでもないだろうと思う。
コンテナを開け放してガンダムの整備をするというアイデアに、直近のミッションでコンビを組んだ最年少のマイスターはもちろん無用心だと顔を顰めた。だが、そもそも秘密武装組織が拠点にするような島だ、航路からは充分に外れているし、余所者が近づくこともない私有地でもある。万が一の場合でも、Eセンサーの感知範囲を最大にしておけば隠れるのにゃ余裕で間に合うだろ、とロックオンは反論した。明るくっていいじゃねえか、きっと作業も捗るぜ。われながら暢気に宣った自分に、きまじめな子どもは呆れた一瞥を投げて嘆息したきり、もはや何も言おうとはしなかったのだ、が。
(怒られるなあ、こりゃあ……)
心の中で舌を出したとたん、
「何をやっている」
抑揚の乏しい声がぴしりと鞭打つようにコンテナ内に響いて、ロックオンは咄嗟に身を硬くした。相も変わらず感情の薄い口ぶりなのに、容赦なく糾弾されていると感じるのは疚しいところがある所為だろうか。
「あー……」
微妙な笑顔で振り向いた先、居住スペースに続く階段の上からこちらを見下ろしている子どもはいつもの無愛想な無表情だったが、盛大に呆れているのがロックオンにはわかる。へらっと笑って右手を振ってみせれば、まなざしが孕んだ温度が目にみえて下がった。
その様子に、やっぱそうくるよなあと肩をすくめ、
(――あれ?)
ロックオンはまばたきをした。たしか刹那もロックオンに言い包められるかたちでエクシアのハッチを開けて作業していたはずだが、跳ねた黒髪にも服にも、濡れた形跡は見当たらない。
首を傾げて、おまえ大丈夫だったの、と問えば、呆れの色がさらに強まった。
「すこし前から東の空が暗くなってきていただろう」
咎めるような口調からすると、空模様を見て一足先にハッチを閉め、難を逃れたということらしい。しかし手元の作業に熱中していたロックオンは雲行きがどうだったかなど気にも止めていなかった。そうだっけ?とつぶやいてハロを見ると、優秀なAIは「アマグモ、アマグモ!」と赤い眼を明滅させながらデュナメスの上から転がり降りてくる。気づいてたなら教えろよこのやろう。
「イタイ!オウボウ!ボウリョク、ハンタイ!」
受け止めてやったハロを照れ隠しに小突いたら猛烈な抗議がかえってきて、そのままじゃれていると頭上から深い溜息が降ってきた。次いで踵をかえす気配に首を捻って刹那を振り仰いだのは、だから、ほんとうに何気ないしぐさだったのだ。
なんだよもう行っちまうのか、とか、つれねえなあ、とか、たぶんそんなたいして意味のない言葉を紡ごうとしていたのだ、と、思う。
思っただけで終わってしまったのは、不意打ちで、ぴしゃっと耳を劈く炸裂音とともに白い閃光がコンテナの内部を斜めに切り裂いたからだ。
「うわ!」
ロックオンが叫ぶのと、がたがたんと派手な音がするのと、
「ロックン、ダイジョブ? ダイジョブ?」
ハロが騒ぐのとが、同時。
「…………何をやっている」
「……ははは……」
先刻よりはいくぶん嵩の減った水の中に無様に尻餅をついた男は、非常に冷ややかな子どもの指摘をそりゃまあそうとしか言えないだろうなあと諦めの境地で甘受しつつ、虚ろに笑って誤魔化した。
これが一般的な建物であったなら、おそらくはそう遠くない場所に落ちたであろう雷の威力で今ごろは停電で真っ暗で、どんな醜態を晒したところで気づかれずに済んだかもしれないが、太陽炉が独立エネルギー源のこのコンテナは生憎と停電とは無縁だ。つまり、膝の上にハロを乗っけて間抜けに子どもを見上げている今の姿勢のみならず、バランスを崩してひっくりかえる一部始終も目撃されたと考えてまず間違いないだろう。
「雷が苦手なのか」
「え?」
「違うのか?」
「や、別にそんなこたねえけど……」
凝っと見下ろしてくる大きなあかい眸が真っすぐすぎて直視に堪えず、ロックオンは目を泳がせる。
たしかに、突然の轟音に驚かなかったといえば嘘になるけれど。
あの瞬間、刹那が開けた扉の隙間から射しこんだ稲妻の閃き。扉の向こうの居住スペースの窓から細い隙間を抜けて、ストロボのように激しくまたたいた。奇妙に引き伸ばされた時間の中、視界を灼くその白光に照らし出された子どもの横顔、に。
見蕩れて足下が疎かになりました、なんて。
(言えねえよ、なあ……)
みっともないとか、大人のプライドとかではなく、単純に恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
うう、と唸ってロックオンは濡れて冷たい頭を掻きむしった。それから、ある事実に気づいてふらりと視線を上げた。
階段の上、居住スペースとの境の扉に手をかけたまま、刹那はまだそこにいる。不規則な間隔を置いて空を駆ける稲光を時々斜めに浴びながら、真っすぐロックオンを見下ろして、立っている。さっさと出て行ってしまってもよさそうなものなのに。
――これは、心配されていると思ってよいのだろうか。
雷ごときに周章して転んだ間抜けを。いつまでも水の中に座りこんで立ち上がろうとしない自分を。
待ってくれているのだと、そう思っても?
ロックオンは頬がひとりでに緩むのを感じた。こんなふうに、ちょっとした折に、頑なにひたむきに唯一つの未来を追求する子どもがふと脇に意識を向けてこちらを見て、そうやって自分に心を許していることを知らされるのは、たまらない。
『雷が苦手なのか』
平坦に問うてきた声の奥に、ひっそりと隠れるように息衝いていた気遣い。たとえば、もしあそこでそうだ苦手なんだと答えていたなら、この子どもはどんな反応をかえしただろう。
(あ、やべ、)
俺、いま、甘やかされたい気分でいっぱいだ。
本格的に頬の緩みを抑えられなくなって、ロックオンは困惑した。困惑して、三秒ほど悩んで、結局は衝動に身を任せた。
「せつなあ、」
浮かれた声で呼ばわって、右手を伸べる。
――起こしてくれよ。
敢えて音にはせず、いまやはっきりと弧を描いている唇の動きだけで告げた望みに、視線の先、露骨に嫌そうに顔を顰めた子どもがそれでも深い息を吐いた後、扉から手を離して階段を下りてくるのを、ロックオンはひどく幸せな気分で待った。