(平成17年10月1日)
「六方越」ルートの検証。
※1/25,000縮尺の地図と、『南柯紀行』と、実際に現地を歩いてみた感想とを脳内ミキサーにかけて、慶応4年閏4月1日の圭介の足取りを追って見ました☆ 例に洩れず推測憶測オンパレードですのでご注意をば。
★ 地理関係

*→ 霧降高原の東側には、尾根が3本ほぼ平行して走っている。(黄色線参照)
*→ このうち、いちばん左側の尾根に沿って現在、霧降高原道路が通っている。
*→ いちばん右側の尾根は、大山ハイキングコースという霧降高原でもポピュラーなハイキングコースになっている(水色線)。霧降高原ハウスをスタートして、大山を経由し、霧降の滝バス停のすぐ近くでゴール。正味3時間45分、6.4キロ。(逆路(登り)だと4時間20分)
*→ まんなかの尾根を通る道は、現在ほとんどのガイドブックで「廃道」となっているが、これが「戊辰の道」、すなわち日光と会津を繋ぐ「六方越え」の旧道(赤線)。
「戊辰の道」は2004年に再整備されたハイキングコースで、大山ハイキングコース同様、霧降高原ハウスをスタートして、途中まで大山コースを辿り、右(南)へと枝分かれする。まんなかの尾根伝いに南下し、丁字の滝付近で霧降高原道路に出る。正確なコースタイムは公表されていないが、運動不足の人間が逆路(登り)でちょうど3時間だった。
*→ それぞれの尾根の間は、かなり急斜面で谷になっており、川が流れている。滝の多さも山肌が急峻であることを証明している。山肌には雑木が生い茂っていて視界はあまりよくない。一部を除いて広葉樹中心の林とみえ、地面は水分を多く含み、柔らかかった。
★ 圭介の六方越えルート(想定)
*→ 『南柯紀行』によると、六方越の旧道は、「日光より直に山に入」るということから、恐らく、大谷川を渡らず、山内からまっすぐ北東の小倉山方面へ出る道だと考えられる。
*→ 1/25,000縮尺の地図で等高線を確認すると、小倉山方面へ出てから「戊辰の道」に辿りつくまでは、所野町を抜け、現在の霧降高原道路沿いにしばらく登り、丁字の滝のあたりで霧降川を渡り、「戊辰の道」に合流する、というルートが近い気がする。
*→ 「戊辰の道」は、途中に道祖神があることから、やはりかつての六方越え旧道と信じてよいと思う。「戊辰の道」そのものは六方沢の手前で大山ハイキングコースと合流して終わるが、六方越えの旧道は、おそらく大山ハイキングコースに沿って少し山を下り、途中から六方沢方面に一気に下っていくルートだったのではないか。
*→ 現在、六方沢橋が架かっている周辺は、六方沢の中でも最も急峻な崖で、ここを人が上り下りできたとは到底考えられない。1/25,000縮尺の地図を参考に、等高線を辿ると、だいたい図右上の点線に沿ったルートが最も下りに適しているように思える。(実際の道は、もっと九十九折になっていたはず。地図上だとスムーズに見える「戊辰の道」も、歩いてみるとかなり左右に曲がりくねって傾斜を登っていく。)
*→ 六方沢下流には、現在、小百川に沿って県道が走っているが(大笹街道・今市青柳街道)、こういうところを走る道は昔からの旧道を生かしたものである場合が多いことから、六方越えの旧道もまた、山を下ってこの道に合流していたのではあるまいか。
*→ 六方沢を越えた後のルートは、等高線からだと二通り考えられる。まず、上記の大笹街道沿いに小百川の崖上をよじ登って大笹牧場に出る道(想定ルートA)。
それから、六方沢からすぐに向かい側の山肌を登って、現在の霧降高原道路に合流する道(想定ルートB)。
*→ 『南柯紀行』の記述には、「二里も進みしに前に一大嶺あり其険梯子の如し、之を越え三里も山上の平野を経て一軒茶屋に至れり、是れ旅人休息の為に設くる者にして笹小屋と名づく」、とある。
「笹小屋」という名は、大笹山の麓にあったがゆえだと考えられるので、「山上の平野」は現在の大笹牧場一帯だと考えて構わないだろう。
*→ 六方沢から大笹牧場に行くには、A/Bどちらのルートにしろ急な斜面を登らなくてはならないが、圭介の「二里も進みしに」という表現から、しばらくの間はさほどきつい登りではなかったことが窺える。(具体的な距離感は山道であることや食事もとらずに長距離を歩いている疲労感などを考えるとまったくアテにはならない。それでも、「少し歩いたら険しい上り道になった」という状況は信用してよいと思う)
よって、私個人としては、右図のピンクのルートがいちばん「有り得る」六方越えルートなのではないのかしら、と思っている。
*→ 「笹小屋」以降のルートは、大笹山を右手に、大笹街道沿いに鬼怒川まで下り、現・県道152号線(川俣温泉川治線)に沿って「日陰村」(現・栗山村日陰)へ出たのだろう。(大笹山は1297mと高くはないが、大笹牧場からだとゆうに見上げる高さなので、間道とはいえわざわざ山を越えるルートで道を作るとは思えない。)
それ以降のルートも、鬼怒川沿いに県道152線を川治温泉まで下ったと考えるのが自然。現在も、この県道沿いに日陰、日向の集落が並び、川治ダムが見えてきたあたりから一気に落ち込むように川治温泉へと下りていく。圭介は「日向村を出て危坂を越え川沼(=川治)にて昼食す」と書き残している。
圭介が会津藩国家老萱野権兵衛と会談した五十里宿は、五十里ダム湖の底に沈んでしまっていて、現存しない。
★ 結論というか感想というか。
……まあ、全部想像ですよ。
現在の、ハイキングコースとして整備された「戊辰の道」でさえ、雑木の間を縫っていく細道で、ところどころにややこしい箇所(変に木々がまばらだったり、指定コースより緩やかな斜面があったり)があって、たびたび立ち止まって道を確認しなければならないほどですから、幾ら間道として使われていたといっても、灯りも地図も道案内もなく進むとすれば、文字どおりの手探り状態だったはず。実際はもっと蛇行したり、行きつ戻りつしながらの道程だったと思われます。木が茂っているので、夜になったら、満月でもほとんど光は差し込んでこない真っ暗闇になりそうな道です。よく晴れた日の昼間でも地面はしっとり濡れていて滑りやすかったので、「雨後にて泥深」かったら本気で滑落しそうでした。滑落しないでくれてよかったよ圭介…。
因みに、圭介が野州花の漢詩を詠んだ場所ですが、『南柯紀行』には一言もそれが六方沢である、とは書いていません。が、「暁方眼覚めて四方を見るに千山万岳一碧中に一種の花あり
(・・・) 実に四山の景況小桃源とも謂うべきなり」、という情景描写から、圭介が眠った場所が視界の開けた場所であったことが判ります。しかし、「戊辰の道」は上記のように雑木が生い茂った中を進むので、眺望を期待できる場所は2箇所のみで、それも一方向しか眺めが利きません。当時と今との木の茂り具合が多少違うとしても、さほど状況は変わらなかったと思われます。唯一、四方に視野が望めるのが、六方沢下流域なのです。ですから、圭介が詠ったのが六方沢の情景であることは間違いないと考えてよいのではないでしょうか。