黄昏はもうしばらく前に金色のひとしずくとなって西の水平線に溶けてしまった。
波打ち際に転がった流木に背を預け、砂の上に直に座りこんで、ロックオンは日没後の蒼い世界が音もなく漆黒の闇に呑みこまれてゆくさまを眺めていた。
否、それは正しい表現ではないだろう。たしかに景色は視界に入っていたが、常人より優れているはずのかれの視神経は何ひとつ、網膜が映したものを脳に伝えてはいなかったから。
その眼がみとめているのは、揺るぎない一対の赤銅色のまなざしだけ。
あの後、トレミーへの連絡や機体整備など必要なことを済ませて個室に戻ったロックオンは、読みかけのペーパーバックを一旦は手にしたもののまるで読む気になれず、ふと思い立って端末からネットにアクセスした。一般回線で検索をかけたのは、クルジス共和国の内戦について。戦争が終結して六年も経っていれば当然、事実を網羅した情報サイトやら各種の研究分析やら潜入ルポやらがぞろぞろ引っかかる。その中で、少年兵について記されたものを幾つか読んだ。
読まなければよかったと、思った。
知らなければよかった。クルジスの少年たちに課せられた「儀式」のことなど。
『この世界に神はいない』
淡々と言い切った口調と、嘘のないあかい双眸。絶望の涯に辿りついた凪の境地。理不尽な暴力で家族を奪われた自分と、理不尽なプロパガンダに躍らされてみずから家族を撃った子ども。
(――出来の悪い冗談だ…)
重苦しいため息が砂の上にこぼれ落ちる。
ひとを裁くなと、幼いころに説かれた古い教えの警句は、きっと正しい。ひとを裁くな、おのれが裁かれぬために。おまえが量るその秤でおまえ自身もまた量られ裁かれるだろう――。ああ、だけどいつまで待てば最後の審判とやらがやってくる。祈っても縋っても神は両親を妹を助けてはくれなかった。自分をともに連れて行ってもくれなかった。
(そうだ、この世界に神なんて居やしない)
ざり、と砂を掴む五指に力がこもる。
おのれの非力を悔やみ、ロックオンは力を求めた。最初はあんな莫迦げたテロを起こした奴らに復讐したかった。幸い――といっていいものか――射撃の腕は悪くなかったから、あいつら全員撃ち殺してやろうと思った。
ただの個人的な復讐心にすぎなかったものが、ゆるやかにしかし着実にその性格を変えはじめたのは、いつごろだったろうか。
紛争のかたちはいろいろだ。テロもあれば戦争もある、でもいつだってそれで苦しみ嘆くのは何もしていない一般市民たちだ。その、悲しみの根源をこそ、どうにかしたいと。歪んだこの世界を変えたいと、そのために強くなりたいと願うようになったのは、はたしていつのことだっただろう?
そうして、白と青の機体が自分の少し前を、進路にたちこめる暗雲をあざやかに切り裂いて突き進む潔さに、救いにも似た何かを見いだすようになったのは。若さゆえの迷いのなさを、右も左もわからない夜の海にかがやいて行くべき道を示してみせる灯火になぞらえるようになったのは。
いったい、いつからだったか。
ちくしょう、と口の中でつぶやいてロックオンはきつく瞼を閉じ、またひらいた。あの子どもが感情のままに動くから、自分は泰然と構えて最年長のリーダー役をかなぐり捨てずにいられるのだ。そんなことわかってる。
(俺に、ひとを裁く権利など―――)
海はいまやすっかり黒く塗りつぶされて、視線を上げても見えるのは一面の闇だ。ただの闇。寄せてはかえす絶え間ない波の音だけが鼓膜をやさしく揺さぶる。穏やかな宵の風が頬を撫ぜる。
月もない溟い夜のなかで、透徹した二つのあかい眸だけが色彩を失わない。網膜に焼きついて、消えてくれない。
刹那に銃口を向けることの愚かさなど、頭では十二分に理解していた。仲間割れをしている場合ではないことも。理解していても、そうせずにおれなかった。きしむ心を抱えて銃把を握った過去がそうさせた。
けれど、実際にトリガーを引かれてさえ、あの子どもは動揺の欠片すら見せなかった。真っ直ぐな眸は凝然と自分を殺そうとする者を見つめかえした。無知や驕りではなく、ただしくそれが自分の命を奪うものと認識して、なお。
そのうえ、おまえを殺すぞと、冷酷な意志をこめて告げた言葉に対して一瞬の躊躇もなくかえされたのは、無際限の許容。
『かまわない、代わりにおまえがやってくれれば』
その瞬間、ロックオンの胸をつらぬいた激昂は、まさしく憎悪と呼ぶに相応しかった。
どうしてそんなに簡単に言える。言ってしまえる。だってそれはおまえの生きる意味だろう。ガンダムという、戦争根絶を体現するものにおまえはなりたいのだろう。
それなのにどうしてこんな理不尽な復讐に付き合おうとする…!?
その程度の想いでしかないという考えは浮かばなかった。この世界を変えてくれと、託されたその重みがわからないわけがない。武器を取り戦うことを択んだ覚悟を知らないわけがない。
歪な鏡像。
そうだ、世界に歪められた子どもだ。俺も、おまえも。
「ちくしょう…」
もういちど吐き捨てて、ロックオンは前髪を掻きあげるようにして頭を抱えこみ、立てた片膝に顔を埋めた。われながら情けない声だと思った。