あざやかなグリーンで思い思いに着飾った人々が歌い、踊る。
 軽快なフィドルのリズム。バグパイプのマーチは蝸牛が這うような独特の音色を摩天楼の渓谷に響かせ、誰しもの心の奥に潜む郷愁をかきたてる。
 手拍子。
 クラクション。
 歓声。
 ひるがえる幾つもの旗。
 笑顔、笑顔、笑顔。
 知恵の実の名を戴いたこの街で五世紀以上の昔に始まり、それから毎年くりかえされてきた華やかなパレードの喧騒を、ロックオンは分厚い人垣の外、一筋折れた通りのビルの古めかしい石造りの表階段に蹲って、目を閉じて聞いていた。あふれかえる人の波もここまでは届かない。
 息が辛かった。身体も重い。頭がぼうっとして、喉はいがらっぽい。風の冷たさが一入なのはつい昨日まで常夏の島にいたという事実に責任転嫁できるとしても、その他の症状が示す唯一の結論はつまり要するに、まごうかたなき風邪である。
 出かける前から怠さを感じてはいたが、どうやら熱も出てきたらしかった。ティエリアあたりに知られたら、マイスターの自覚が足りない、とまたお得意の叱責をくらうことだろう。
 だが、今日だけはどうしても基地にいたくはなかったのだ。
 聖パトリックの祝日。世界中のアイルランド人がみずからに流れる血の誇りを高らかに言祝ぎ、ともに春の訪れを喜ぶ、みどりの祭典。
 家族の命日とこの日、一年のうちこの二日間だけはできるだけミッションを入れず休暇を許可すること―― それが、当時まだニールと名乗っていたロックオンがCBに加入する際に提示した条件だった。
 毎年この日は必ずパレードを見るのが、あの惨劇の前後で変わらぬ数少ないかれの習慣だ。といっても、アイルランドに帰るわけではない。故郷の祝祭には今のかれには不要な思い出がたくさん詰まっていたし、何より祖国の土を踏むときは、胸に抱いた決意を新たにするときと決めていたから。 
 むしろ、遠く離れた異郷の地で、異邦人として自分たちのルーツを振りかえり噛みしめる人々の群れにまぎれているほうが、かれは落ちついた。アイリッシュのコミュニティは世界各地にあるから、選択肢には困らない。気が向けばパブで一杯ひっかけながら陽気な会話に巻き込まれもするけれど、たいていは一歩退いたところから祝宴の賑わいを眺めて過ごした。しあわせそうな人々の笑顔を。
 今年は少し勝手が違ってしまったが、見なくとも皆が楽しく笑っている気配はちゃんと伝わってくるから、別にかまいやしない。ささやかな、けれど確かな平和の存在。
 ロックオンは口端をほんの少しだけ綻ばせた。
 ――歌え、アイルランドの男よ、歌って世界に知らせよう…
 折しも聞こえてきたギターの旋律は、明るい曲調にのせて祖国の苦い歴史と希望を歌ったフォークソングで、ロックオンは目を瞑ったまま忘れようもないフレーズを頭の中で追う。
 ――銃声は消え、ライフルはもう誰も傷つけない
 ――幼い子どもたちが犠牲になる必要もない
 ――ほら、空に響く笑い声が聞こえるだろう?
 ――アイルランド中が歌い踊り、人々に幸福が戻ってくる…
 歌詞はひたすらにうつくしい情景を謳いあげる。これほどまでに人々が幸せそうにしているのを見るのは初めてだと、素晴らしいことだと。そして最後に、こう結ぶのだ。
(……今はまだ夢にすぎないけれど、いつもそう願ってる…、か)
 そう、この歌はただ理想を並べただけの歌だった。現実ではない。それでも、アイルランドの人々は何世紀も大切に歌い継いできた。この夢こそを現実にしようと。
(だが、いったいいつまで歌い続ければいい…?)
 ロックオンは腕の中に顔を埋めた。歌詞にあるように、争いに引き裂かれた故郷に光が射す日を、いつか見ることが叶うのだろうか。ロックオンの記憶の中ではいつまでも灰色の廃墟でしかない、あの場所で、明るい陽射しのなか皆が過去の傷に苦しむことなく笑って暮らせる日が、いつか。
 そんな世界を、この手でつくれるだろうか。硝煙と血の匂いにまみれた、この手で――?
 いつになく弱気だなと、ロックオンは自嘲の笑みをこぼした。体調の所為もあるのだろう。本格的に身体を起こしているのが辛くなってきて、とうとう傍らの手摺りの足に肩をもたせかける。
 そのまま重力に負けてずるずるとつぶれそうになった、そのときだった。
「きみ!」
 不意にかけられた張りのある声に、ロックオンはのろのろと顔を上げた。斜め前の路肩に駐車していた車の持ち主が帰ってきたらしく、ルーフに片手をかけて、サングラスにスーツ姿の金髪の男がこちらを見ていた。
 ロックオンと同年配に見える。おもむろにサングラスを引き抜けば、目のさめるような緑の双眸と嫌味なほどのハンサムがあらわれた。
「どうした、具合が悪そうだ」
「…………」
 この国特有のお節介焼きの登場に、ロックオンは顔を顰めた。なんでもないからあっちへ行け、と無言のまま片手を振る。面倒事はごめんだ。
 しかし男は開けていた運転席のドアをバタンと閉め、歩道を大股に横切って真っ直ぐロックオンのほうへ近づいてきた。一連の動作は無駄も隙もなくどこまでも統制されていて、軍人か、とロックオンは持ち前の観察力で判断する。
(厄介なのに遭っちまった)
 皆パレードに夢中でひとりくらい後ろでへばってたって気づかれないだろうと油断したのが失敗だった。こうなりゃ、できるかぎり邪険にしてさっさと追っ払うしかない。
「なに」
「具合が悪いのなら乗りたまえ、病院でも自宅でも送ろう」
「余計な世話だ」
「だが、動けんのだろう?」
「…好きでここにいるんだ。パレードを見に来たんだよ」
「しかしそこに座りこんでいては見られまい」
「音は聞こえる」
 だから放っておいてくれ。つっけんどんに言い放つと、男はふむ、と頷いて何かを考えるように拳を口元に当て――続いてロックオンを唖然とさせる行動に出た。
 ならば、と言うなりロックオンの隣、古びたコンクリートの階段に腰を下ろしたのだ。
 着ているスーツはどう見ても安物ではない。物腰からして、軍人といっても相当の教育を受けた、おそらくは士官クラスだろう。どこの酔狂だ。胡乱な目でロックオンは男を見た。
 その視線でこちらの言いたいことをきちんと汲み取って――どうやら勘も悪くなさそうだ、気をつけないと――男はにこりと親しげな笑みを浮かべる。
「具合の悪い人間を見つけておいて、そのまま立ち去るような卑怯な真似はできかねる。きみがあくまで乗らないと言うのならば、私がこうして傍に付き添うほかないだろう」
(どうしてそうなる…!?)
 開いた口が塞がらないという慣用句を、今ほど実感したことはなかった。放っておいたって死ぬような状態ではなし(そのくらいこの軍人なら看破できるはずだ)、どうしても寝覚めが悪いというなら救急車なり医者に一本コールすればいいのだ。勿論、そんなことをされた日には救急隊員が駆けつける前にこちらはトンズラさせてもらうが。
「さて、我慢比べだな」
 実は私は我慢弱いのだが、とどこか楽しそうに男は告げ――厄日かよ、とロックオンはげっそりした。
 そんなかれの心情など知らぬげに、今度はアコーディオンとホイッスルが浮かれたメロディを奏ではじめる。底抜けに明るいジグ。誰かがおどけた振り付けでパフォーマンスしてみせているのだろう、笑い声がどっと弾けた。
 隣の男は何を考えているのか、やたらニコニコしながら指先でリズムを取っている。と思いきや、きゃ!というちいさな悲鳴に素早く腰を上げ、風に飛ばされて転がってきた緑色の帽子を拾うと、追いかけてきた少女に返した。少女はシャムロックのフェイスペイントを施した頬をほんのりピンクに染めて、どうもありがとう、と笑う。ちいさな手がお礼にとポケットから抜いたのは、ロックオンの頬が引きつるほどあざやかなグリーンに染められた一輪のカーネーションで、男は呆れるくらい恭しい会釈とともにそれを受け取るや、あまつさえ花びらにくちづけてみせた。可哀想に、少女は真っ赤になって走り去る。
(気障なヤツ…)
 いちいち人目を惹く男だ。くるりと踵をかえした男とばっちり目が合ってしまい、慌ててロックオンは横を向いた。男はまたロックオンの隣に戻ってきて座り直すと、
「これはきみにこそ相応しいな」
 きみはアイルランド出身なのだろう、とカーネーションを差し出した。当然ロックオンは無視するが、男はめげない。人垣の方を指さして、
「それとも、あちらで揺れている緑のハートの風船のほうがお好みかな?」
 などと寝言をほざく。
(莫迦にしてんのか)
 いっそ口汚く罵ってやろうかと、ロックオンの眸が剣呑さを増した。CB内では穏やかさで定評のあるかれだが、その気になれば毒舌にもボキャブラリーにも自信はある(なんたってアイルランド出身だ!)。ついでに体調不良の現在、機嫌の悪さと沸点の低さにも自信があった。
 アイリッシュの男をなめんなよ。妙な矜持とともに振り向いた瞬間、くしゅん、と男がくしゃみをした。
 思わずロックオンは口にしかけた罵声を呑みこんでいた。
「失礼」
 なんでもないように言いながら鼻を啜りあげる、男の唇の色は最初見たときより少し悪くなっている。春とは名ばかりのこの寒空だ、スーツ一枚では無理もないだろう。それだけのことだ。それだけのことだった、が。
(…あー……、)
 もぞりと、悪い癖が頭をもたげたのがわかった。
 たとえばこれがミッション中であれば、どんな事情があれ下手な相手に関わったりはしない。だが、今はオフだった。ここにいるのはガンダムマイスターのロックオン・ストラトスではなく、ただの一人のアイルランド人の男だ。少なくともロックオンの中ではそういう区切りがついている。
 そうして、一個人の立場になってしまえば、見ず知らずのお節介野郎でも自分が我を張った所為で風邪をひかれたのでは、それこそ寝覚めが悪い、のだ。相手が純粋な親切心から自分に構っていることが判ってしまっている以上。
 アメリカ人のそれと種類は違えど、アイルランド人の気遣いもまた、個人レベルでは如何ともしがたい国民性なのだった。
 つま先に目を落とし、それからロックオンは空を仰いだ。高層ビルの隙間を埋める雲ひとつない蒼穹。建物の壁に黒く落ちて流れる鳥影。谺するバグパイプ。
 平和そのものの街角でなぜか隣り合って座っている、米軍士官と、全世界の敵。
(何の冗談かね、こいつは)
 ぐしゃりといちど髪を掻き混ぜ、長い前髪の下から男の視線を受け止める、気分はまるで勝ち目のない勝負に挑むギャンブラーに似ていた。
「…あんた、いつまでこうしてるつもりだ…」
 男はロックオンが会話に応じたのがよほど嬉しかったのか、ぱっと表情を明るくする。
「もちろん、きみが首を縦に振るまでだ」
「………………なんで」
「さて、なんでだろうな。性分としか言いようがない」
「……時間、いいのかよ」
「幸い、用事を済ませたばかりでね。心置きなくきみに付き合えるから安心したまえ」
(それは幸いじゃなくて生憎っていうんだ…)
 ロックオンは地の底から吐き出すような盛大なため息をついた。賭けの結果は惨敗。最後通牒だった。
 どのみち、身元を特定されるようなものは持っていない。要はバレなきゃいいんだよな、と、それこそティエリアに撃ち殺されそうな考えが脳裡を過ぎる。なにしろ、実際問題としてそろそろ悪寒が我慢の限界を超えつつある。パレードはまだ続いていたが、かれとしても潮時といえば潮時ではある、のだ。
(このままじゃ埒が明かないし)
 それなりに修羅場を潜ってきた自負をもってしても、この男相手に逃げきれる気がどうもしない。世の中、常識の通じないやつがいちばん強いんだから、これは俺の所為じゃない。心の中で誰にともなく言い訳をして、ロックオンはついに折れた。
「…わかった、乗るよ。それでいいんだろ」
 投げやりに言えば、男はやはりこれっぽっちも動じず、「それはよかった」と満面の笑みを浮かべて右手を差し出した。
「私はグラハム・エーカーという。きみの名を訊いても?」
「……『名前を訊かれたら君はマーフィーにしよう、僕はスミスにするから』」
「なんだって?」
「いいや、何でも。…ダニエルだ」
 適当な偽名を名乗ると、助勢を申し出るグラハムとやらの手を断って自力でよろよろと助手席に潜りこむ。風が遮断された空間はそれだけで暖かく、無意識のうちにほうっと安堵の吐息が漏れた。
「今エンジンをかけたから、じきに暖まる。しばらく我慢してもらえるとありがたい」
 運転席に回ったグラハムは、当たり前のように掌をロックオンの額にあててくる。反射的に身構えるロックオンには素知らぬふりで、
「熱いな。平熱は高いほうか?」
「べつに、普通だ」
「しかしこれではかなりきつかっただろう。見かけによらず意地っ張りなのだな」
「どっちがだよ…」
 自分の纏った緊張感に気づかぬはずはない。食えない男と見るべきか、悪い人間ではないと素直に受け止めるべきか。ともかくも、向けられているのが純粋な好意であることは疑いがなかった。ああもう、とロックオンは首を振り、肩の力を抜いた。
 コートでもあればよかったのだが、と妙に甲斐甲斐しいグラハムの様子に、
(いつもとまるで立場が逆だな)
 そんなことを思って、つい唇の端が緩む。
「おや」
「…なんだ」
「初めて笑った」
「……」
 ぴたりと真顔に戻るロックオンにグラハムはハハ…ッと朗らかな笑い声を上げた。よく笑う男だった。
「それで、どちらまでお送りすれば宜しいかな?」
 正直に宿泊先を教えるかどうか、躊躇したのは束の間だ。いったん好意を受け入れてスプリングの利いたシートに身を預けてしまえば、もう余計な距離を歩くのも機密云々で悩むのも億劫で、ぼんやりした思考はあっさり匙を投げた。ダウンタウンのエコノミーホテルの名に近場のランドマークを添えて告げると、グラハムが緩やかに車を発進させる。
「到着するまで寝ていてもかまわんぞ」
「そしたらあんた、場所わからないだろ」
 どうせたいした距離じゃなし、それに眠る気分じゃない、とロックオンは肩をすくめた。他人の気配のあるところでなぞ―― それも殊もあろうにユニオンの軍人だ――寝られないというのが真相だが、そこまで明かす義理はない。
「なら、少し会話に付き合ってもらっても?」
「……どうぞ」
 隠したつもりでも警戒心が滲んだらしい。ロックオンをちらと見た緑の眸に、悪戯っぽい光が浮かんだ。
「通常、アメリカ人は自己紹介のすぐ後で相手の職業と住んでいる場所を聞いて無粋だと嫌われる。だから、私は敢えてそれはやめておこう」
 出会ったばかりで嫌われるのは悲しいからな、とまた笑う様子に、ロックオンはまったく変わった男だとの認識を新たにする。変わっている、が―――
(面白い、な)
 咄嗟の思考にわれながら驚いた。そういえば、ついぞこういった機転の効いた駆け引きと縁がなかった。まあ、世界と大喧嘩の真っ最中なうえ、仲間の大半が年下では致し方ないが。
 頭の回転が早いのだ。多少常識をかっ飛ばした言動をする男ではあるが、友人になれれば会話がさぞ楽しいだろうに。決してそうはなれぬ現実を、ロックオンは少し残念に思った。と同時に、今だけでも他愛ない会話を楽しもうと決めた。
 今日一日くらい、立場を弁えない軽はずみな行動を見逃してもらったって罰は当たるまい。だって今日は聖パトリックの祝日、アイルランドの血統と伝統を祝う以外のあらゆることはどうだっていいのだから。
「そうだな、何から訊こうか。…ニューヨークへはパレードを見に?」
「ああ」
「見られなくて残念だったな。この街のパレードはアメリカ最大だ」
「知ってる。最初のほうは見たからまるきり無駄足でもなかったしな。…そういや、あんたは何であんなところにいたんだ? アイリッシュ、じゃないよな?」
「私は生粋のアメリカ人だ。そんなものがあればの話だが」
 軽く肩をすくめてみせるグラハムに、そりゃそうだ、とロックオンは苦笑した。アメリカはそもそも移民が集まって建国した国だ。アイルランド移民もそのうちのひとつだ。
「残念ながらパレードを見にきたわけではない。あの近くに所用があったのだが、辞去する際にせっかくだから見て行けと薦められた。それで話の種に覗いてみた、それだけさ」
「ご感想は?」
 そうだな、とグラハムは赤信号で停まった車の流れに目をやりながら、少し考え込むまなざしになる。
「訊いてみたくなったな、なぜアイルランド人はこれほどに忍耐強く前向きなのかと」
 きみに声をかけたのはそれもあったのかもしれない、と微苦笑を浮かべるグラハムの横顔を、ロックオンはまじまじと見つめた。あのお祭り騒ぎを見て、アイルランド人の国民性を分析していたとでもいうのか、この男は?
「前向き、ねえ。なぜそう思う?」
「そうだろう。きみたちの歴史が決して平坦なものではないことは、私でも知っている。だが、きみたちは笑顔を絶やさない。苦しい時でも笑い、歌い、そして闘う。卑下することなく、血の誇りを掲げて前に進む。それでいて、快活さを忘れない。その、尽きぬ原動力はどこから来るのだろうと。訊いてみたいと思ったら、ちょうどきみがそこにいたのだよ」
「――あんたには、そんなふうに見えるんだな…」
 ロックオンは呆然とつぶやいた。再び流れはじめた景色に目を転じ、街灯に飾られた三色旗がビル風にはためくさまに目を細める。
 この男はきっと、否、確実にわかっていない。たった今、自分が何を口にしたのかを。かれが肯定したアイルランド人の生き方が、同時に何を肯定したのかを。
「実際のところ、どうなのだ?」
「…単に諦めが悪いだけだろ」
「だが、諦めないということは大事だ。理屈ではなく、心でしか判断できないことも世の中にはある。意思のちからが道理に勝つことも。違うかな?」
「だと、いいけどな」
 おかしなものだ。こちらの素性を知っていれば、この男とてこんなことは口が裂けても言わないだろうに。
 なのに気分が上向いている自分を客観的に認識して、ロックオンは唇を嗤いのかたちに歪めた。熱の所為か、現実感が薄れて、まるで赦されたような気すらしてくる。赦しなぞ、そもそも求めてもいないのに。
 自分で決めて背負った義務と責任を、重い、と感じていたのだろうか。いつのまに?
 ――まだ夢でしかないと知っているけれど、私の希望は決して潰えることはない。先刻の歌の最後のフレーズを口の中で転がした。先刻は絶望に近い想いを生んだ歌詞は、こんどは驚くほどあたたかく胸に響いた。
「そうだな…どうしてと言われてもわからねえが…ただ、俺が毎年パレードを見るのは、だからかもしれないな」
 アイリッシュ・ディアスポラ。どん底から遠くちっぽけな希望のみを糧に這い上がった人々の子孫たちは、世紀を経ても自分たちのアイデンティティを忘れない。
 ひとつ瞬いてからゆっくり視線を運転席に戻すと、グラハムはステアリング操作の合間に一瞬だけロックオンを見て、そうか、と笑った。
 途中、パレード関連の交通規制で多少足止めを食ったものの、ホテルまでは二十分もかからなかった。エントランスの前に車を停め、ギアをパーキングに入れながら、
「折角の祝祭日なのだから、本音を言えばこのあとアイリッシュパブにでもお誘いしたいところだが…」
 まさか病人を連れ回すわけにもいかない、とグラハムは残念そうに首を傾げる。
「コーンビーフとグリーンビアできみとの出会いに乾杯したかったのだが」
 げ、とロックオンは顔を引きつらせた。いいことを言ったかと思えばこれだ。前言撤回、絶対に友達になぞなりたくない。
「グリーンビア、ってあのとんでもない色のやつかよ…」
「奇麗な碧ではないか。まるできみの眸のような」
「ゲテモノと一緒くたにしないでくれ。つーか、そういう科白は女に向かって言っとけ…」
 むしろありゃ色といい突飛さといい、あんたにこそ似合いだろ。力いっぱい脱力しながら毒づいて、ロックオンは助手席のドアを開けた。歩道に片足を下ろす。海が近いからか、風が冷たい。
(ウェルカム・バック・トゥ・ザ・リアル・ワールド、ってね…)
 一瞬だけ目を眇め、ロックオンは何かを振り切るように立ち上がった。振りかえったときには、飄々としたいつもの笑顔になっている。長身を屈めて車内を覗きこんだ。
「まあ、送ってもらって助かったよ。ありがとさん」
 緑の双眸がかれを見上げてくる。
「いつまでこの街にいる?」
「さあ…。本当ならパレードだけ見てさっさと帰るつもりだったんだが」
 この体調じゃしばらくはおとなしくしてないとならないだろうな。ロックオンがため息雑じりに答えると、グラハムは、では、とやや身を乗り出した。
「明日は大事を取るとして、明後日の夜によかったら食事でも如何かな」
 誘い文句とともに鼻先に突き出されたのは、先ほど少女がくれた緑色のカーネーション。ロックオンは呆れて目をしばたたいた。まったくもって懲りない男だった。いっそ感心するほどに。 
「俺たち、さっき会ったばっかりなんだけど」
「迷惑か?」
 もちろん迷惑だ。と言い切ってしまえないのは、かれの緑の眸がとても真っ直ぐだからだ。揺るぎない確信に満ちたそのまなざしが、誰かを彷彿させるからに違いない。
(ああもう、本当にもう…)
 理性は、はっきりきっぱり断れと告げている。これきりだと思えばこそ、車にも乗ったし会話にも応じたのだ。ユニオンの軍人、おそらくは前線で戦う士官。この相手は危険すぎる。
 一方で、この数十分間の会話の応酬の楽しさを、これで最後にしてしまうのは惜しいと思う気持ちがあるのも、事実で。
 助けを求めるように振り仰いだ空は、相変わらずあっけらかんと澄みわたっていて、ロックオンはため息をひとつ、かれにできる最大限の譲歩をした。
 すなわち、神経を疑いたくなる色に染められた花に手を伸ばす。とにかく今俺は横になりたいんだ、ここで粘られても面倒だし、だから頼むから何も言ってくれるな、とまたしても心の中に言い訳を並べつつ。
「約束はできないぜ」
 迎えに来てももう自分はいないかもしれない、と示唆しても、グラハムは気にした様子もない。
「かまわんさ」
 気が向いたらまた会おう、ダニエル。にこやかに偽名を呼ばれ、ロックオンは再びため息をついた。明後日の夜、車でか徒歩でか知らないがこのホテルにやってきて、自分がいようがいまいがロビーで待ち続ける男の姿が、実に容易に想像できてしまったので。
「さあ、病人がいつまでも寒空の下に立ち尽くしているのはよくない。早く中に入りたまえ」
「言われなくてもそうさせてもらうさ」
 じゃあな、と疲れた顔でロックオンは助手席のドアを閉め、グラハムが片手を上げるのへ自分も左の掌をひらりと振りかえして、踵を返した。背後でアクセルを踏みこむ音を聞きながら、右手に持ったどぎつい色合いの花弁に困惑の視線をやる。まるであの男の眸のような自己主張の強いグリーン。
(さて…どうすっかな…)
 独りごち、もういちどため息をこぼすと、ロックオンは気を取り直したようにありふれた旅行者の顔を張り付けて、ありふれたエコノミーホテルのエントランスをくぐった。何はともあれ今はひたすらベッドが恋しかった。