本日の鳥飯。
■□■大鳥活字メモ――府川充男氏説の纏め
(A) 『季節』 エスエル出版会〔発売:鹿砦社〕、1988年8月号[12号] (未入手)
(B) 『Typographics ti:』 日本タイポグラフィ協会、1992年11月号〜1993年3月号[145号〜148号] (入手済)
(C) 西野嘉章・編、『歴史の文字――記載・活字・活版』 東京大学出版会、1996年10月 (入手済)
資料(B)『Typographics ti:』 日本タイポグラフィ協会、1992年11月号〜1993年3月号[145号〜148号]掲載の『大鳥活字再校』(府川充男)は、資料(A)『季節』
エスエル出版会〔発売:鹿砦社〕、1988年8月号[12号]掲載の自分の論文の補足と訂正のようなものらしく(というのも、(A)は目にしていないためはっきりとしたことは言いかねるのです)、のっけから『季節』掲載論文に寄せられた批判への回答から始まります。その書き出しが奮っていて、
「たまたま同誌(=『季節』)の編緝委員と装釘を引き受けていた折でもあり、雑誌全体の八割強を占める特輯部分の進行が相当に遅れることが判然した段階で急遽執筆を決め、それまでの図書館通いの傍ら作成していたノートを基に一箇月程度の調査だけを追加して大急ぎで纏めた俄仕立ての<埋め草>に過ぎない」
と……。(遠い目)
加えて、「私が該稿に取り組んだ主要な目的は何よりも資料状況の整理及び当時から原稿を準備し始めた或る書物の執筆に向けた自己了解の深化とトレーニングにあった」
………。(虚ろな目)
更に更に、「そもそも私が大鳥圭介とその活字を調査・研究し始めたのは、大鳥活字を用いた刊行物についても、大鳥活字それ自体についても、論者によってその誌していることに多くの相違が存在していて(しすぎていたと言ってもよい)、どう整理したらよいのか困じ果てていたからに外ならない」
「誰かがやってくれるならよいが、どうも自分でやるしかなさそうである。実のところ、これがきっかけで私は印刷史研究に深入りすることになってしまったのである」
と、きっぱり。
結局そんな扱いか大鳥圭介。(爆)
ともあれ、府川氏の目論見は三つの焦点を持ち、一) 大鳥活字を使用している刊行物の確定など、書誌的・出版史的な調査と研究、 二) 大鳥活字に関する第一次資料的な「確実な」記事と、転訛の過程で付け加えられた解釈との明確な腑分け、
三) 以上の調査結果と刊行物の紙面そのものの考証から、大鳥活字の実相を推定・解明すること、と宣言しています。
…が、この『再校』の記事では、三)の結論は、曖昧なまま「推認する外ない」となっており、最後の最後で肩透かしを食らったかんじは否めません(笑)
(C)資料内掲載の『小括 - 幕末和文鋳造活字の展相』(府川充男)は、時系列的に上記(A)および(B)を前提として書かれており、江戸期の彫刻活字や本木昌造についても幅広く言及して、幕末期の活字の歴史をすっきりと纏めています。が、大鳥活字に限定して見た場合、活字にある程度詳しい人でないと、(B)をすっ飛ばしていきなり(C)を
読んでも、府川氏の考えはよく解らないのではないだろうか、という印象を受けました。
いずれにせよ、(B)も(C)も、その道の専門家かかなりの通に向けて書かれたものであり、印刷・活版その他技術について素人な私には、どうしてそう繋がるのか理解できない話の流れもままあり。(…。)
理解できていないままに、下記に府川氏の考えを整理してみることにします。
府川氏は、まず、大鳥活字について書かれた諸資料から、「鉛製活字」「アンチモンを加ふる」(大槻如伝)、「大鳥圭介自ら工夫せる亜鉛錫等の鋳造活字」(中山久四郎)、「鉛製彫刻活字」「錫の彫刻活字」(三谷幸吉)、「鉛の彫刻活字」(徳永直)、「鉛・錫・アンチモニーの三元合金活字」(川田久長)、「鋳造鉛活字」(庄司浅水)、「錫製の活字」「錫とアンチモニーを用いて活字鋳造」「鉛活版」「錫・鉛・アンチモニー合金」(福井保)、「鋳造鉛活字」(牧治三郎)、「彫刻活字か鋳造活字か定かでない」(矢作勝美)、という各説を紹介したうえで、
「諸資料を一つ一つ調べていくと、どうも第一次的資料が多種多様なために諸説紛々となっているのではなく、第一次的資料が殆ど存在しないにも拘らず、いい加減な聞齧りや論者が恣意的な資料操作を行ったこと、さらにそれが訛伝されたことなどが諸説並立の原因となっている」と考えます。そして、これら諸説の中で信頼するに値する第一次資料と看做すべきものは、
(1) 『築城典刑』『砲科新論』(いずれも大鳥活字を使用し、前者は万延元年、後者は文久元年に夫々初版が縄武館(=江川塾)出版と記録に残る)の凡例、
(2) 『大鳥圭介伝』(山崎有信編)収録の大鳥談話の記述
の二つであるとみなします。次いで第二次資料として最重視するのが、
(3) 大槻如伝著の二冊、『日本洋学年表』(明治十年)と『新撰洋学年表』(昭和二年)
であり、それ以降の大鳥活字に関する記述はすべて、(1)(2)(3)いずれかの説に準じたものか、それらをミックスしてでっちあげた信用に足らない説、と判断するとともに、これら(1)(2)(3)の記述から見て、「大鳥活字は鋳造活字と考えるしかない」と断定しています。
これだけの資料の羅列で鋳造活字だと断定できる根拠が素人にはよく判らないのですが(…)、(1)の『築城典刑』『砲科新論』それぞれの初版凡例部分に、
「訳字ノ原語及註文宜ク細書シテ嵌註ト為スベシ而シテ錫造ノ活字新鋳未完備セザルヲ以テ今姑ク之ヲ植テ本文ト同体ニシ而シテ一線ヲ其右傍ニ畫シ以テ彼此混同無カラシム」とあること、それから(2)の中に圭介の言葉として、「西洋の活字の甚だ便利なることを知つて、蘭書に基き其の鋳造法を種々研究して遂に両書(『築城典刑』および『砲科新論』)の出版に手製の活字を使用したことがあつた、」
「在来の錺屋に命じて、鉄砲玉を作るが如くにして作りたる」(以上、『大鳥圭介伝』 p.28)、
「其時分本を出版するには、当り前木版に彫つてするのが、どの本でも皆さうであつた、活字と云ふのもあつたですが、之も木で矢張彫つて、それを植へて碁盤の目のやうになつて居つた、」
「それ(西洋の活字の法)は亜鉛と錫とを入れて鋳物にして、それを植てやるのだ、夫れでやつてはどうじや、」
「木版に彫り付けて置くと、それ一つしか用を為さぬ、活字にして置くと新規の本を拵へるに便利だ、」
「それが西洋の法は分つて居る、調合などは分つて居るが、どう云ふ風に、やると云ふことは知らぬ、私が考へるにクボイもの、ロならロ、ハならハを、銅に彫る、さうして夫れを、イロハなり何なり並べて置いて、今の亜鉛や何かを溶かしたものを鉄砲玉を拵へる様に能く注ぎ込むだら出来るだらう、」
「全く西洋から器械を取寄せて、長崎で活版を拵へた、之は骨は折れぬ、誰でも出来る話、併し全く亜鉛や何かの材料の調べをして、さうして日本で考えてやつたのは、私が始だと思つて居る」(以上、『大鳥圭介伝』
p.448-450)
という記述があること、さらには圭介が実際に戊辰戦中に銃弾製造を試みており、その作り方を引用していることなどから、「鋳造」したと考えるのが適当…ということなのではないかなと推察します。
次に、原材料ですが、↑で「信頼に足る資料」と述べた(1)(2)(3)について、アンチモニーを持ち出しているのが二次資料である(3)のみであり、「大槻如伝が如何なる取材に基づいて、これらの記事を書いたのかは全く明らかでない。すなわち、文献批判自体から成立し得る推論は、次の二つの方向のみである。第一、(3)はソースも特定できぬ記事であるから信憑するに値しないものとし、(1)(2)のみを根拠として錫・亜鉛の合金による活字と考える。第二、私の仮説のごとく別時点における情報と考えて、例えば試作段階(3)と完成段階(1)(2)に振り分ける。恣意的に(1)(2)を無視することは文献研究の手法としては邪道である。」と論じます。
(1)(2)については上段で説明しましたので(3)について、証拠として引用されている部分を引くと、
「大鳥圭介鉛活字ヲ創製シテ築城典型ヲ印行ス」(『日本洋学年表』)
「例言 錫造活字新鋳未完備セズ訳字原語等姑ク右旁ニ畫テ彼此混同勿ラシム○此鉛製活字は最初銃弾を方形に鋳換て其上面に文字を刻し組立て通常バレン摺二三回すれば文字磨滅す夫より蘭書を詮索して竟にアンチモンを加ふる事を知り更に造替たりとか」(『新撰洋学年表』)というものです。
府川氏は、自説をふまえて、大鳥活字の"完成品"に使用された材料が亜鉛と錫の合金であったという仮定から、『圭介伝』の「西洋の法は分つて居る、調合などは分つて居るが、どう云ふ風に、やると云ふことは知らぬ」という文章の解釈を、「大鳥の知っていた「調合」とは、泰西の常識的な活字合金の配合例ではなかったのか(すなわち寧ろ鋳物に用いられる合金類一般の智識を持っていたのではないか)」と考えます。彼によれば、亜鉛を主剤とした合金活字は大正期以来タイプライター用に製造された例があるそうで、鉛主剤型三元合金活字より熔点・硬度ともはるかに高い硬質活字だそうです。そして、圭介著作の『砲科新論』の第三編「砲軍製作ノ物件」の第一門「金属」に、合金の詳細な説明があったことからみても、「大鳥圭介が原著に接して、合金についての詳細な智識を得ていたことは疑う余地がない」と結びます。
この後、府川氏は大鳥活字を使って印刷された書籍であっても、活版を用いて再版されていたり、覆刻製版されていたりする例があることなどを述べ、諸説混在のいまひとつの根拠とするほか、それらの書籍の版面から大鳥活字が<鋳上りが悪く、仕上げに更めての刻刀入れを要することがしばしばあったであろう>と述べていますが、これは主として(A)資料において論じていた観点らしく、(B)(C)を読んだのみでは論点がよく解らないので(汗)ここでは割愛します。((C)を参照すると、どうも唯一平仮名を用いた『歩兵制律』における平仮名の組版状態が、鋳造活字としての決定的証拠だと考えているっぽいのですが)
ともかく、(B)資料の結論としては、
「万延元年から慶応三年にかけて刊行された縄武館版、幕府陸軍所版の活版本十数標目の組版に用いられた大鳥圭介創製の和文活字(漢字・仮名)の殆どは鋳造活字である。ただし一部に彫刻活字も混植されている。」
「一部の活字には、鋳造後に刻刀による仕上げ、修正が行われている可能性がある。」(←これが最後の割愛した部分の結論です)
「本木昌造が嘉永年間に印刷したという(中略)の正体が今日に至るまで不明である以上、本邦近代最初の(実用された)話分鋳造活字の製造者が大鳥圭介であった可能性はかなり高い。」
「大鳥活字は、母型を直截に銅に彫刻し、(そこに鋳型を立てて)純錫ないし亜鉛・錫の合金を注ぎ込むという方法によって製造されたものと推認する外ない。」ということになります。
……なんとなく、あちこち遠回りして最終的に最初の疑問点に帰ってきてしまったような、要するに結局なんだったんだ、という気分がしなくもなく…。(黙)
まあ、そんな結論もまた、圭介の足跡っぽくていいんですけどね。
(20050318〜26)
■□■『桑名藩戊辰戦記』および『新選組日誌(下)』にみる脱走軍前軍の行軍路。
桑名兵の動きを辿ると、土方さんの通った道筋が綺麗に書き残されていることに(今更ながら)気づきました。
『南柯紀行』の記述では、前中後軍のみっつに全隊を分けたあと、それぞれが追々出発して別々に宿を取り、そののち諸川で後軍が中軍に追いついた、ようなかんじですが、実際には国府台出発時には二隊に分かれていたようです。これを裏付ける記述が、『新選組日誌(下)』にあり、「是ヨリ二軍ニ分レ、壱軍ハ大鳥氏将トシテ宇都宮ニ向フ、壱軍ハ土方先生、秋月登両将。(『立川主税戦争日記』)」「衆議ノ上、大鳥桂介ヲ以テ総督ト為ス。令ヲ諸軍ニ下シ軍ヲ分テ二ト為。一軍ハ秋月登之介ヲ将ト為、土方歳三参謀タリ。(中略)
一軍ハ大鳥氏ヲ総督ト為ス (『戊辰戦争見聞略記』)」
石井勇次郎の記述にある「十三日、二軍共ニ発ス」、これは12日の誤り。続いて「秋月氏率ル処ノ軍ハ」とあるので、前中軍が同時出発したような印象を与えますが、他の資料を見るかぎり、同時出発したのは中後軍で、圭介がその二軍を纏めて看ていたらしい。
●秋月・土方担当、または前軍
「第一大隊、回天隊、新士官隊等ヲ引テ水海道ヨリ走土村ニ至ル」(『島田魁日記』。『中島登覚え書』も同一内容を記す)
「伝習第一大隊、七連隊、御領兵、別伝習、大砲二門、回天隊(士友)、我藩ト合シテ小金口ヲ進ミ」(『戊辰戦争見聞略記』)
「前軍 第一伝習隊隊長 秋月登之助(江上太郎)、副長 内藤隼人(土方歳三)、参謀 倉田巴(桑藩、立見鑑三郎)、井上誠之進(会藩、米沢正平) 御領兵(加藤平内) 桑名士官隊(約八十名) 大砲二門 計約千名」(『桑名藩戊辰戦記』)
●圭介担当、または中後軍
「第二大隊ノ七聯隊等ヲ本道ヨリ宇都宮城エ向フ」(『島田魁日記』、この記述は『中島登覚え書』とほぼ同じ)
「伝習第二大隊、誠忠隊(士歩)、純義隊(士官)、合シテ千余人ヲ率イテ小山口(日光山ヘノ本道也)ヲ進ム」(『戊辰戦争見聞略記』)
「中軍 第二伝習隊総督 大鳥圭介、参謀 浅田光蔵、柿沢勇記(会藩) 誠忠隊(山中孝治) 純義隊(渡辺綱之介)
後軍 七連隊 隊長 米田敬次郎(幕臣、二十五人扶持)、歩兵指図役頭取 山瀬主馬、天野電四郎、参謀 国枝太郎(桑藩、馬場三九郎) 別伝習隊 隊長
工藤衛守(会藩約六十人、砲一門)、参謀 松井九郎(会藩、牧原文吾)、鞍平次郎(桑藩、河合徳三郎)」(『桑名藩戊辰戦記』)
桑名藩戊辰戦記は、回天隊(隊長 相馬左金吾、約百名)を遊軍扱いとし、中後軍と合わせて「計千名」と書いていますが、島田、中島、石井の3人が揃って回天隊の名を前軍に入れていることから、土方さんたちとともに行動したと考えていいでしょう。
さて、前軍の動きですが、この日は小金まで進み、番兵を出して宿陣します(『戊辰戦争見聞略記』、『桑名藩戊辰戦記』)。ここで町田老之丞が流山の桑名藩御用商人宅までひとっ走りし、藩会計方より軍資金千両を受け取り、各藩士に十両ずつ分配しました(『桑名藩戊辰戦記』)。
翌14日、『桑名藩戊辰戦記』は、桑名隊は「山崎駅に至り番兵を出して宿陣」したと書いていますが、この根拠となっているのは恐らく石井の『戊辰戦争見聞略記』です。その後の記述から、石井が前軍とともに行動していたことは確かだと思われるのですが、『南柯紀行』と照らし合わせると、この部分はどうもおかしい。圭介が山崎村について書いているところを引用すると、「十四日山崎村昼食無事にて舟渡村に泊す」となっており、中軍が前軍を追い越してしまったことになります。けれど本当にそんな事態になっていれば、圭介が記さないはずもないと思われるので、ここは石井の勘違いか、若しくはこの時点まで石井は中後軍とともに行動しており、その後、前軍に異動した、という可能性があるのではないでしょうか。というのも、上記編成を見れば判るように、後軍には馬場、河合ら桑名藩士が要職についています。何らかの理由でもって、桑名隊が前軍の士官隊(メイン)と後軍の数名に分かれていた、ということは充分考えられると思います。ちなみに、前軍の動きとしては、誰が書き残したものかはわかりませんが、「四月十三日四ツ時御着。十四日滞留。十五日五ツ時出立。伝習歩兵隊
隊頭 秋月登之助、内藤隼人(『千葉県東葛飾郡誌』)」という記述が『新選組日誌(下)』には紹介されています。これはどうやら、布施(柏の北東4〜5キロ、取手の対岸あたり)のことのようです。
14日は増水などのため足止めを食らったと考えられており、15日に坂東太郎(利根川)を渡河しますが、圭介の中軍と同じくやはり「市民の渡し場にて大きな船がなく、大いに難渋した」と記しています(『桑名藩戊辰戦記』)。そしてこの日、水海道に達し宿泊しました(『戊辰戦争見聞略記』)。
…この後も追いかけてもいいのですが、だんだん圭介から離れていってることに(またしても今更ながら)気づいたので、ここで一旦ストップ。
(20050306)
■□■『新選組日誌(下)』にみる鴻の台の顛末 その一。
『新選組日誌(下)』が、幕府軍鴻の台結集の箇所で参照しているのは、『島田魁日記』『中島登覚え書』『立川主税戦争日記』『幕末百話』『戊辰戦争見聞略記』『幕末実戦史』『晦結溢言』の7つ。最後のひとつは、堀内信という人の手によるものらしい。
まず、4月10日夜7時頃に、土方以下の新撰組江戸潜入チーム(近藤救出作戦実行チーム)6名が、それまでの居場所(大名小路酒井邸?)から今戸〜八幡宮別当寺に移動します。翌日が江戸開城とあって、混乱を避けたという見方がされています。(島田・中島)
翌11日、土方以下新撰組は鴻の台の幕府脱走軍に合流します。「小梅を通り過ぎ、市川駅を過ぎ、国府台に一泊したが、ここには凡そ三千人ほどが集会していた」という記述が、島田・中島両名で共通しています。約三千人という数は他に、立川も書き残しています。
『日誌』解説によれば、小梅という村は現墨田区に二ヶ所あったとのこと。私が以前書いた向島小梅のほか、横川にもあったといいます。『日誌』は、新撰組が書き残した「小梅」は横川であろうと推定しています。横川に南接して報恩寺(現墨田区太平)があり大鳥以下伝習隊が屯集していたこと、更にその隣の霊山寺には精共隊が集合していたことから、この付近が脱走兵の集結地になっていたとみるのです。そして、土方が何らかの連絡のためにこの小梅村を無視することができず、だからこそ記録に留められたと考えます。しかし、その根拠のひとつとなっている「報恩寺に伝習第二大隊が屯集」は、11日昼間の時点ではまだタイミングが早すぎます。少なくとも、大鳥さんが目指した小梅村は「向島」の「小倉庵の傍」ですから、該当しません。でも、ここで、ひとつ『南柯紀行』の謎が解明されたような気がします。すなわち、伝習第二大隊の中で、「小梅村」が混同されたのではないかという…(笑)
圭介は「兼て約せし所の向島なる小倉庵の傍」と書いてますから、本人、そのつもりだったでしょう。しかし、人の集まっている場所を探したけれど見つからなかった。切絵図を見ると、小倉庵の傍に人が集まれそうなのは常泉寺という寺がひとつだけです。一方、横川・太平近辺には寺が密集しています。どっちの「小梅」が正解だったかはともかく、士官たちは500人近くを休ませるのに、横川小梅を選び、適当な寺、つまり報恩寺に陣を張ったのではないかと、いえ私の想像にすぎませんが。(でも何となくのっけから、先が見える展開という予感もしなくもなく…苦笑)
ともあれ、新撰組が通過した「小梅」が横川だという説は合っているでしょう。脱走兵の集合場所云々ではなくて、単純に今戸から国府台へ向かうのなら、吾妻橋を渡って堅川通りを辿っていくのが尤も合理的な道筋だからです。隊士の記録が「小梅ヲ直様市川駅ヲ過」であることからみても、小梅は本当に通り過ぎただけだったのではないでしょうか。
ちなみに、『桑名藩戊辰戦記』にある、「脱走兵は向島小梅村報恩寺に集合」という記録。これもまた、見事に情報が混線してますな。↓では、向島小梅という地名から、圭介と同道かと思いましたが、これもむしろ勘違いとみるほうがよいのではないかと。要するに、脱走時点で桑名士官隊は小川町屯所にいたという情報を信じるなら、やはり小川町屯所での合言葉は「小梅村」であり、向島と横川と、各々が「こっちだ」と思ったほうへ行ってしまったんじゃないかしらと。或いは、指示出しの時点ですでに混乱して「向島小梅の報恩寺」と伝えてしまい、「向島小梅」を取るか、「小梅報恩寺」を取るかで、夫々の対応がズレてしまったりしたのかもしれないなと。更に、とりあえず12日の朝国府台に向けて出発した時点では、伝習隊の前後に桑名士官隊もくっついてたんじゃないかと思います。もちろん、桑名だけじゃなくて、横川近辺に宿泊してた脱走兵がぞろぞろと国府台を目指してたのではないかなー、なんて。
ところで、南柯紀行その他資料を見ても、国府台を発って北行した脱走軍は総勢二千余名となってるんですが、そして『日誌』もそれに倣ってるんですが、だとすると、島田や中島らが書き残した「三千人ほど」…どこ行っちゃったんでしょうか。『見聞略記』に、12日にも続々と隊伍を整えた脱走兵は集まってきていている様子が書かれていることから、島田らが記録した後に総人数は増えてなきゃならないんですが…あれぇ…?
■□■『桑名藩戊辰戦記』にみる鴻の台の顛末。
4月11日に小川町屯所を明け渡せという通達があったことは↓に書きましたが、ちょっと読み返してみてたんですが、「開城の前日、11日には小川町屯所も新政府軍に開け渡すべしという達しがあった」という文章なので、通達そのものは10日に出て、内容が11日に明け渡せ、であったという文脈になります。すみません読み間違ってました。(江戸開城の日が11日ですよ)
その更に前日、つまり9日に、単身柏崎へ連絡に行っていた松浦秀八(大目付、180石、38歳)が帰還し、藩主定敬の内意として、「諸士は江戸を脱出し、関東で一暴れした後はなるべく早く越後に集結して欲しい」と伝えます。この松浦は、『南柯紀行』では松浦秀人と記されてますが、これは解読の際の間違いでしょう。230石取りの桑名藩公用人の次男で、松浦家の養子に入り、選ばれて江戸昌平黌に留学した逸材だそうです。桑名の脱走隊の指揮は、町田老之丞とこの松浦が執っていました。老之丞が記した鴻の台に集合した主要メンバーは、
幕人: 土方歳三(内藤隼人、新撰組)、大鳥圭介(歩兵奉行)、米田敬次郎(七聯隊歩兵頭)、山瀬主馬、小菅辰之介、天野電四郎(歩兵指図役頭取)
会津藩: 秋月登之介(江上太郎)、木村理左衛門、吉川直記、工藤衛守、松井九郎(牧原文吉)
桑名藩: 杉浦朔之丞(松浦秀八)、倉田巴(立見鑑三郎)、佐藤武介(町田老之丞)、国枝太郎(馬場三九郎)、鞍平次郎(河合徳三郎)
…ということで、変名を使いつつも本当はそれが誰であるのか、お互いに知っていた様子が窺えます。また、大鳥さんに、本人が主張するようにこの時点で騒ぎを起こすつもりがなかったのだとしても、桑名藩士らは藩主の意向を受け、「関東で一暴れ」する気でいたことが判ります。ついでに、大鳥さんは桑名兵二百と書き残していますが、実数は80名弱であったようです。
この軍議のときに、仮に↓で書いた大鳥さんの威勢のいい科白が発せられたとしたのなら、どのタイミングだったのでしょうか。記録が残っているのなら、発言はあったとみるべきではないかと思います。兵学書の翻訳を手掛け、江川塾で教えていた大鳥さんの名は、ある程度の知識人以上なら知っていたと考えられるからです。だからといって、じゃあ大鳥さんが南柯紀行で書いたことは方便かというと、そうとも言えません。これは私の想像ですが、辞退はしたけれども最終的には断りきれず、総督となることが決まってから、それでは大鳥さんから一言ドウゾ…というふうに振られて言った、という流れが自然な気がします。(軍事組織にしろ政治組織にしろ、トップが選出されたらまずは一席、演説する(させる)のが古今東西の常ですから)
ただでさえ高かったであろう士気は、一層高まったことでしょう。その折の大鳥さんの内心を思うと、微苦笑を禁じ得ません。意外に、喋ってるうちにだんだん自分もその気になってきてたりして)
■□■『桑名藩戊辰戦記』(郡義武、新人物往来社)
厳密には大鳥さん関連じゃないのでここに置くのはどうかと思いつつ、大鳥さんネタなのでまァいっか!という相変わらずの行き当たりばったりないい加減さで鳥飯掲載決定。
著者が桑名藩士の子孫ということで、地の文が面白い(爆)←弁護とか非難とか…(笑)
何人かの桑名藩士の手記を基に組み立てているのですが、芯となっているのは、後に初代桑名町長となる町田老之丞の手によるもの。戊辰戦争当時30歳だった町田老之丞が庄内にて降伏後、謹慎中に記したもので、子孫に向かって「他人に迷惑がかかるから公開するな」と言い残したため、平成6年になるまで誰も内容を知らなかったという代物だそうな。(本人から直接言われたご子孫が亡くなるにあたって、桑名藩戊辰史を研究していた著者に贈られたらしい)
まだ冒頭部分しかまともに読んではいないのですが、鳥羽伏見からの帰還後、脱走軍に加わるまでの間の陸軍関係のことがちらほら出ています。江戸の情勢なども少し判るので、この場にてご紹介。
まず、京詰めおよび鳥羽伏見を戦った桑名藩士らは、堺から海路引き上げてきたところ、桑名城がすでに開城してしまっており、行き場がなくなって、藩主を追って江戸藩邸を目指しました。ところが、江戸に着いてまもなく徳川家が恭順と決まったため、桑名は煙たがられて、藩主定敬は越後柏崎の藩の飛地へ向かうことを余儀なくされます。主戦論派の町田らは、慎重論派を定敬の警護につけて体よく江戸から追っ払うと(苦笑)、藩邸の池の魚を釣って宴会をし(…)、3月9日に本所弥勒寺橋側の大久保修繕(元京都町奉行・陸軍奉行並)の屋敷へ入り、変名して約80名弱で「七連士官隊」を結成しました。市中取締を命ぜられ、数名一隊で日夜巡回をはじめたところ、西軍もおいおい江戸入りしていたので、あちこちで小競り合いが起きた。しかし桑名藩士らの気勢があまりに凄いので、やがて官軍は7、8人で群れをなして歩き、夜は出歩かなくなった、と自慢げな町田さん。
大久保修繕の屋敷には、他に伝習隊(脱走兵か?)、靖兵(共)隊、江戸表で諜報活動を担う会津藩士数名が滞在していたそうです。(ここでさらりと、秋月を、諜報員の親玉呼ばわり。) そしてこの間、近藤さんが度々、桑名藩士の勧誘に訪れたので町田さんはそれをきっぱり断ったといいます。
4月始め(3日か4日と町田は記し、他の藩士は6日と記しているらしい)、近藤さんが捕縛されたことを聞いて落胆した大久保が、自邸の主戦派に退去を要請したため、桑名藩士は小川町屯所へ移り、隊名を「四連新士官隊」と改めました(もしかしたら七聯隊との兼ね合いかなとちょこっと邪推)。このとき、大久保からミニエー銃50挺+大砲一門をちゃっかり貰っていきます。抜け目がない。
さて、ここで真打登場。
江戸城明渡しに伴い、小川町の屯所も明渡すように、とのお達しが、4月11日付であったというのです。そこで桑名士官隊も江戸脱走を決意した、という話の流れなのですが……えーと、そうすると本当にもしかして大鳥さんたちも土壇場で一日で大慌てで脱走決めて飛び出してきたという可能性がありますか…?(汗)
←このへんの経緯について、大鳥さんてば自伝(『大鳥圭介伝』)でもさらりと流してるんですよね。いろいろ軍議を繰りかえしたけれど意見の一致がみられないので、じゃあおれたちは11日に脱走すっか、と決めた、てなかんじで。
微妙な事はまだあって、郡氏は脱走の日を4月11日とし、朝から雨だったと書いているのですけれども、もしかしてこれ、幕末実戦史(南柯紀行)を真に受けて書いてないだろうか。あれは4月11日夜と書いてますが実は12日未明だってことは、前後の記述で確かだと思うんですがどうですか。でも、報恩寺で集合して市川大林院で軍議、てことは、桑名兵、大鳥さんと同行ですか?(でも大鳥さんは一言もそんなことは書いてないし)
←このへんは地の文で書かれているので、郡氏がどこかから引っ張ってきたのか、町田ら桑名藩士の手記に書いてあったことなのか、が微妙。一次資料じゃないとこういう不都合がままある…。
んで、この軍議。大鳥さんが総督を固辞したというのが有名ですが、どっこい、老之丞さんの記録によりますと、
「吾れ、徳川家の禄を受ける事未だ三年なるとも、君臣の大義もとより死をもって報せんと思う。然るに数百年の恩受けたる麾下の士中には一向に報する事知らぬが如き者あり、長大息するのみである。」
堂々弁じたといい、郡氏曰く、「こちらのほうが大鳥らしいのではないだろうか。」
…………そぉかぁ…?(爆)
私の印象だと、どっちかっていうと、後半部分の「溜息ついちゃうよったくもー」のあたりは非常に大鳥さんらしいですが、前半つーか真ん中らへんの「死をもって報せん」は違うと思うのですが。だって、そんなこと本気で思ってる人が、家を出てくるとき、「われ徒死せず」なんて言わないだろ…。仮に方便だったとしても、だったら「死をもって報せん」のほうが立派な方便に聞こえるよ…。(ファンといいつつこの扱い…汗)
何はともあれこの著者、「歳三の遺骨を故郷へ帰す会」会長とかやってる割に、そこはかとないオオトリスキーと見受けられます。このあとは、大鳥圭介の脱走までの経歴を軽く紹介する…とみせかけて、延々と、某有名作家の著作における大鳥さんの扱いの酷さを「これではまるで親の敵」と攻撃し、某国営TVの昔の番組(大鳥による土方暗殺説を紹介したらしい)を低劣と攻撃し、「大鳥の名誉のために一言付け加えると、彼は決してそんなケチな男ではない。共に関東で戦った町田老之丞は『味方が崩れかかった時も最後まで踏み止まり、負け戦で兵士が落ち込んでいる時も、大鳥のみは陽気で部下を激励していた』と述べている」と持ち上げている。明治以降の活躍に触れ、「軍人よりも政治家、文官に向いていたのかもしれない。しかし、性格は明るく闊達で人望もあり」、負け戦でも陽気に振舞うのを「一種の将才」と、我が意を得たり!…な論理を展開させます。しかし最後の最後で、「ただし、この男は名前がよくない。これは明らかにマイナスイメージである」と結論づけるっていうのは…。……どうしてここでオチがつくかな…。(答え:大鳥さんだから。)
そんなわけで、大鳥さんの出番はそう多くはないのですが、微妙に目が離せない本です(笑)
■□■グラスゴーそのに: Elder社
宮永氏の『白い崖の国をたずねて』には、「造船所エルダー社」とあります。当時の正式名称は、「John Elder & Co.」で、創設者のジョン・エルダー(1824-69)は第一線の蒸気船造船技師であると同時に、一流の研究者、或いは発明家でもあったようです。グラスゴー・デジタルライブラリー(Glasgow
Digital Library, ストラスクライド大学)では、「グラスゴー市の100人」の中で、「おそらく、エルダーの早すぎる死ほど、グラスゴーの主導産業である造船業にとって大きかった痛手はないだろう」と紹介されています。
ジョン・エルダーは外洋船のエンジン製作に携わる機械技師を父にもち、見習い期間終了後、最初は製図工としてイングランドで働いた。24歳でグラスゴーに戻り、4年ほど父親の事務所に勤務した後、ランドルフ・エリオット社(Randolph
Elliott & Co.)というグラスゴーでも有名な水車・風車製造会社(millwrights)に、共同経営者という形で加わる。この会社は造船関連の業績はゼロだったが、エルダー自身は、見習い工時代に「スコットランド造船業の揺籠となった海事機関の発明・改良で有名な」(北正巳『スコットランド・ルネッサンスと大英帝国の繁栄』)ネイピア造船所(Robert
Napier & Sons)で充分な経験を積んでおり、やがてランドルフ・エルダー社(Randolph Elder & Co.)と名を変えたこの会社は、造船業へと参入していく。本来の業務である水車・風車の製造も続けていたが、こちらはだんだん造船・海洋工学に押しやられていった。1868年に共同経営者が引退すると、同社は通称でジョン・エルダー社と呼ばれるようになり、翌年9月にエルダー自身が若干45歳で急逝後、正式にジョン・エルダー社に改名した。エルダーの死因を北氏は「事故死」としているが、グラスゴー・デジタルライブラリーでは「肝臓の病気で数ヶ月に及ぶ療養の甲斐なく死亡」と記している。
エルダーが経営していた時代、この会社は通算で111基の蒸気機関を造り、それらのエンジンを搭載する船もたいていは同社が手掛けた。エルダーの死亡した1869年には、一年で14基のエンジンと3隻のヨット(クルーザー)を造っているが、これはクライド川周辺の他の造船所に比べ、2倍近い総トン数だという。他に、鉄製の浮きドックをそれぞれジャワ(インドネシア)、サイゴン(ヴェトナム)、カヤオ(ペルー)などに輸出もしている。
しかしエルダーの最大の功績は、造った船の数ではなく、かつてジェームズ・ワットが提案した鉄製スクリュー・プロペラを完成させるとともに、改良型エンジンを実用化して燃費効率を飛躍的に向上させたことにある。この改良型エンジンは"the
combined (compound) high and low pressure engine"と記されているが、無理矢理訳せば「高低圧複合エンジン」とでもなるのだろうか?(葛生さんは理系アウツなんで解りません;;) ともかく、エルダーのこの新型エンジンは、従来型より30〜40%も燃費がよく、しかも長期間使用していても燃費効率が悪くならなかったというから凄い。特に遠洋航海に重宝され、顧客には一般の外洋船舶運用会社に加え、英国海軍も名を連ねた。エルダーは「ワット以来の天才」と持て囃され、1853〜67年の間に、エルダー社はエンジンとボイラーの改良において計14の特許を取得している。
エルダーが卓越していたのは、研究開発の分野だけではない。彼は労使関係でも優れた才能を発揮した。彼の工場では、経営者と被雇用者と思えないほどフレンドリーな関係が発達し、気取らない態度や労働環境の改善に取り組む姿勢が広く好意的に受け入れられていたという。彼が労災保険を導入していたことは特筆に値する。
当時の英国は、産業革命によって生まれた資産階級と労働者階級の間の溝や摩擦が大きな社会問題となっていた。この問題自体は1830年代から様々に取り組まれてきたが、エルダーの活躍した時代、まだまだ労働者の社会的地位は低く、たとえば労働者が選挙権を得たのは1867年であり、また1870年に普通教育法が制定されるまで、労働者階級の子供は少年工として働くのが当り前で、学校へ通うことができなかった。労働者というのは一般的に「無知で不道徳」であり、蔑まれていた。
『白い崖の国をたずねて』には、木戸と大久保がロンドンのイーストエンドを訪れる場面がある。「当時、イーストエンドには、ドック・砂糖精製所・ビール醸造所そのほかの工場などがあり、悪臭に満ちた騒々しい俗悪なところであった。そこの住民の多くは下層階級に属し、(中略)街路や路地には体を売る女性らが客をひろっていた。またボロ服を着たこどもたちは、ごみの山や下水管のなかでどぶさらいなどをして金目のものを探していた。」
木戸は、「貧民窟というよりは悪漢の巣であり、その状態はただ言語に絶するというほかはない」と言い、大久保は「余はあれをみて、世の中が浅ましくなった」と言った、と書かれている。
エルダーは、労働者たちの環境が劣悪であれば、それは労働意欲を減退させ彼ら自身の資質を損なうと考え、労働者の地位向上に尽力した。具体的には、まず社内に「傷害手当基金」を設立し、毎月定額を集めた。およそ年間500ポンドとなるその資金は、会社側と労働者から選ばれた者たちで構成する委員会に管理させた。また、当時エルダー社のあったゴヴァン地区には学校がひとつもなく、子供たちにも工場労働者たちにも教育が圧倒的に不足していた。エルダーは、工場労働者たちが文学的・科学的教養を身につけ、機械工学や技術を磨けば、彼らの社会的地位も向上すると考え、自らの工場で働く人数を基に合計5つの学校の設立を計画した。殊に少年工の存在には心を痛め、夜間学校へ通うことを勧め、授業料を肩代わりしてやったりもした。
実際には、彼の学校設立計画は、彼自身の死によって頓挫してしまう。労働者の住環境をよくするという案もほとんど完成していたが、実現しなかった。しかし、遺されたエルダーの妻は、夫が学校建設用に用意していた土地を大事に守り、地域住民のために公園にして欲しいと言い残した(現在オンライン地図上に公園は見当たらないが、周辺に"Elder
Park"とつく地名を幾つか発見することができる)ほか、グラスゴー大学の土木工学・応用力学科や造船工学科に多額の寄付をした。
エルダーの葬儀の日は、普段は騒がしい町中が火が消えたように静まりかえり、クライド川を行き来する船のマストは半旗の位置に下げられ、労働者たちはできるかぎりの正装をして棺に続いた。その光景は、まるで王子を見送るようだった、と、当時の牧師が書き残している。
工場のあったクライド川南部、ゴヴァン(Govan)地区フェアフィールド(Fairfield)周辺には、エルダーの名を冠した通りが何本かある。また、グラスゴー大学造船学講座にも、彼の名がつけられたという。
さて、そんなジョン・エルダーの工場。圭介は1872年9月16日(西暦10月18日)の午後に「造船場」を訪れ、翌日は朝10時から「蒸気器械製造局」を見学しています。蒸気器械というのはエンジンのことでしょう。エルダーの死後3年が経っていますが、"フレンドリーな空気"は健在だったのでしょうか?
『白い崖の国をたずねて』には、木戸がエルダー社を訪ねたという記載はありません。副使の伊藤が圭介、林菫、宇都宮三郎を伴ってグラスゴーを再訪した理由を、宮永氏は「主として家具調度を求めるのが目的であったものか」と書いていますが、エルダー社の当時のグラスゴーでの存在感からみて、必ずしもそれだけとは思えないのですが…。
少なくとも、工場側の人間は、ジョン・エルダーという人物の功績を多少は口にしたはずです。それを聞いて帰ってきた圭介が、日本の工業界だけでなく、教育界にも大きく貢献していったというのが、ちょっと面白いなと。←こじつけ