本日の鳥飯。
■□■イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
これまた圭介に直接の関係なし。(いい加減にしろや)
『描かれた幕末明治―イラストレイテッド・ロンドン・ニュース日本通信1853-1902』という本(雄松堂書店)で、脱走軍がどのようにロンドンで報道されていたのか確かめてみましたら、「メリケン」とか「掘った芋弄るな」系の表記に大笑いでした。
「ハコダディ」(箱館)、「サコウガワ」(徳川)、「ストツ・バシ」(一橋)、「ナガイ・ゼンバ=ハコダディ知事」(永井玄蕃)、「マチダイロ・タロ将軍=陸軍司令官」(松平太郎、副総裁)、「エノモト・カマジャロ提督=艦隊指揮」(榎本釜次郎、総裁)など。ちなみに脱走軍は、「徳川のパルチザン」や「反乱軍」、「北軍」と報じられていたらしい。官軍は、「南軍」「ミカドの軍」のほか、「皇帝支持派」という書き方もありました。ちゃんと箱館って書いてる記事が多い中で、「北軍が佐渡の島を占拠した(1869年4月17日号、横浜発3月10日=和暦1月28日)」という勘違いもあったり。だいたい一ヶ月遅れで情報が届いてるようなので、1869年3月6日号の「600人の南軍と900人の北部同盟軍との間に戦闘が起った。前者は完全な敗北を喫し、混乱のまま逃げ帰った。」という報道は、旧暦12月半ばに発信されたものと思われ、五稜郭進軍中もしくは松前戦争のことと思われます。
表記については、まあ、当時の日本人も外国人をだいぶ滅茶苦茶に書き残してますから(ブリュ子とかアルムスツロンスとかあいらぶきゅうとか)、おあいこなんですけどね(笑)
次は、できたらパリ・イリュストレとか調べてみたいです。
(20050416)
■□■ブリュネさんの書き残し。
またしても大鳥さんと直接関係はないのですが、他人様からお借りしている本(『函館の幕末・維新―フランス士官ブリュネのスケッチ』、中央公論社)に掲載されている「ブリュネが日仏将兵の組織を指示した文書」という写真の解読に務めてみました。(また無謀な事を…。←フランス語は大学時代に2年齧ってリタイヤにつき文法の正確性は皆無=勘違い多発必至。アクサンテギュやなんかはブラウザによって表示されない可能性が高いので、記号なしアルファベットで代用してます。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
toujours enthousiasme, (相変わらず熱狂的...??)
Brigade Marlin (マルラン隊)
chef de demi brigade japonais (日本人による半大隊の隊長)
Onnda et Okawa (本多と大川) ←フランス語ではHの発音は存在しないので、ホンダはオンダになってしまうのです(笑)
Brigade Cazeneuve (カズヌーヴ隊)
chef de demi brigade japonais, (同上)
Kassouuga et Iba (春日と伊庭)
Brigade Bouffier (ブッフィエ隊)
…――――――― (横線、恐らく前述二つと同じという意味)
Matsoka et ??? (松岡と「ミトリ/ミキ」?)
Brigade Fortant (フォルタン隊)
…――――――― (同上)
Takikawa et Oshi (滝川と星) ←ホンダ同様、ホシもオシになってしまいます(笑)
Le chef d'etat major general se nomme Hijikata, (大隊長の地位には、土方を任命する)
C'est l'ancien second de daimio chef du suinsen=goumis de Yedo. (これは、かつて江戸の新撰組の副長だった人物である)
Vous voyez que Marlin, Cazeneuve, Bouffier et Fortant n'ont point de
doublures japonaises, (貴方がたは、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエそしてフォルタンは、日本人たちの代役を務める必要がないことが判る(だろう)...??)
J'ai enige?[erige?] qu'on mit? completer? eut? sous leurs ordres les
cachiras dont les noms sont inscrits? (←ここまで来ると全く判らん…。"J'ai
erige"なら「私は…を昇格させる」、"qu'on mit+名詞"で「〜する人々、即ち」という言い換えなのだけれど"completer"は「補って完全にする」という動詞←語尾が定形じゃないのが何か意味があるっぽい?
"sous"以下は、上記のとおりなら「名前が登録されている頭たちの命令の下で」という意味になる)
Si vous voyez M??lot il reconnaitra ses cheris Onnda, Okawa, Natsoka
et Takikawa, ... (もし、貴方がたがM...を見る/理解するなら、彼/それは最愛の/秘蔵っ子の本多、大川、松岡、滝川...
以下欠)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
……。やっぱり無謀でしたな…。
因みにこの隊構成、印刷で残ってる組織図のものと違うので、あくまでも「一案」だったのじゃないかという気がします。また、後段の文章を読むと、二人称に"vous"が使われているので、個人的メモではなく第三者に向けて書かれたという可能性が高い。最後の文章の印象からいくと、『追跡』(鈴木明)に載っていたメッスロー宛のブリュネの手紙と印象が被るので、本国か同国人宛の手紙の可能性もあるかと。あくまで日本人をサポートするだけだよ、と説明している、ように見えますので。(←印象です。"vous"は二人称複数形であると同時に、尊称でもあり、この場合どちらの用法なのかは解読不明な部分が多すぎ+私の読解力不足につき不明)
それにしても、松岡と一緒に書かれてるのは誰なんだろう…?
(20050416)
■□■グラスゴー追記: グラスゴー大学と日本。
グラスゴー大学のHPで"Japan"と検索すると、いちばん最初に"Glasgow University
Archive Services - Gallery - Japan"というページにヒットします。造船(Shipbuilding)、文化(Culture
and Tourism)、人々(People)の三つの観点からグラスゴーと日本の関わりを紹介しているのですが、なかなかよくできてます。"Hakuro
Catsle, Nara"って何だろうと思ってよくよくみたら「白鷺城、姫路」の間違いだったりとかありますが(笑)
圭介とは直接関係ありませんが、足跡調査中に引っ掛けてちょっと面白いなと思ったので、当時の背景資料みたいな感じで紹介しておきます。>>「Glasgow
University Archive Services - Gallery - Japan」
(20050416)
■□■グラスゴーそのよん: London and Glasgow Ship Engine Company、Smith & Co.之鋳鉄局
>London and Glasgow Ship Engine Company
正式名称は"London & Glasgow Eng. & Iron Shipbuilding Co."らしいです。略して"London
& Glasgow Co."とも。軍用艦など大きなものも含め結構いろいろと作っていて、建造した船の情報は200以上引っかかるのですが(建造年はざっと見たところ1863〜1913年まで)、会社自体の詳しい情報は、オンライン上では今のところ未確認。「船下しを一見」とあるので、おそらくは新造艦の進水式を見学したのでしょうから、当然クライド川岸にあったものと思われます。"CLYDEBUILT
SHIPS DATABASE "によれば、この会社では1972年には合計8隻の船が建造されており、うち3隻がSteamship(汽船、船名は「SESTOS」「HERON」「PARNASUS」)、4隻がPassenger
Cargo Ship(貨客船、船名は「GLENLYON」「POTOMAC」「LADY LYCETT」「SIR FRANCIS」)、1隻がCargo
Ship(貨物船、船名「FLINTSHIRE」)となっています。が、圭介の見たのがどの船かは、当然わかりません。
>Smith & Co.之鋳鉄局
"George Smith & Co.,Ltd., Sun Foundry"(ジョージ・スミス社 サン鋳鉄工場)が正式名称。
1858年にグラスゴーのポートダンダスロード(Port Dundas Rd.)64番地にジョージ・スミスによって設立されたこの会社は、短期間で急成長し、70〜80年代には、当時スコットランド鋳鉄のトップ企業だったウォルター・マクファーレン社(Walter
MacFarlane & Co.,Ltd.、サラセン鋳鉄所)に匹敵する規模を誇ったといいます。1875年にパーラメンタリーロード(Parliamentary
Rd.)に移転したのち、1896年まで同地にあったという記録から、圭介が訪れたのは当初のポートダンダスロードだったことが判ります。
スミス社の手になる製品は現在ライバル社のサラセン鋳鉄所のものほど頻繁には見つからないそうですが、そのデザインと鋳造の質の高さで高く評価されていたといい、門、手すりや柵(ralings)、野外ステージなど、多彩な種類とデザインを誇る製品の中でも、装飾噴水はお家芸だったそうです。ペーズリー(Paisley、グラスゴー郊外の町)のFountain
Gardensに、今でも岩とセイウチを象った同社の製品をみることができます。>>写真
その他、時計台や水飲み用噴水、グラスゴー共同墓地の鋳造物などにもサン鋳鉄所のものは多く、ことに小噴水型水飲み場には、どっしりとしたドーム型の屋根と四隅にワニがあしらってあるデザインがよくみられるそうです。1869年に鋳造された水飲み場のうち、スコットランドでは3つほどが現役で活躍中だとか。グラスゴーのアルバート橋の手すりの接続部は現在少し不安定になっているが、これも同社の作品だとのことです。
1896年にサン鋳鉄所はリンウッド(Linwood、グラスゴーから西に8〜9マイル)へ移転しますが、ちょうどこの頃から経営が悪化しており、それを反映しての動きのようです。そして、この3年後に工場は閉鎖してしまいました。
ライバルのサラセン鋳鉄所やライオン鋳鉄所は、成功の足がかりとして大規模な建造物の鋳鉄装飾に関わっており、サン鋳鉄所がその機会を一度も得られなかったというのは、地元の目にも奇異に映るようで、調査が進んでいる様子。2004年3月には、ジョージ・スミスがリンウッドの本社工場倒産直前にアロア(Alloa、エジンバラの北西およそ30マイル)に新しくサン鋳鉄所アロア工場を設立した、という1889年4月27日のアロアジャーナル(地方紙)報道記事が発見されました。その記事によれば、新工場は地元の期待を担うほどには大きく、立派な規模だったようですが、詳細は現在調査中とのこと。
(20050411)
■□■グラスゴーそのさん: テンプルトン社
グラスゴー大学の資料には、"James Templeton & Co., Ltd; 1938-1974; carpet
manufacturers"とあります。
スコティッシュ・ビジネス・バイオグラフィーによると、ジェームズ・テンプルトンは1802年生まれ。グラスゴーで生地の卸商をしていましたが、やがてリバプールの貿易商社に勤め、メキシコ法人の代表として3年を現地で過ごしたのち帰国。しばらくグラスゴーの綿工業で経験を積み、1829年、27歳のときにペーズリー(Paisley、グラスゴーから西に8マイルほど、ペーズリー織で有名)にショール製造の会社を設立しました。
シェニール糸(Chenille)を使った織物に興味をもった彼は、この織り方による絨毯の将来性を見込み、1939年にシェニール織物の技術改良に関する特許を取得します。シェニール織は、まず織機で織糸用の布を織り、縦糸を中心に細長くカットし撚りを加え(これをシェニール糸という)、これを横糸として再び織機にかけるもので、二段階の手間がかかるとはいえ、機械織りなので従来の手織りのアキスミンスター絨毯よりも製作時間が短くて済むうえ、安価だったそうです。また、繋ぎ目のない表面は多彩なデザインを可能にし、伝統的なアキミンスター(Axminster)絨毯によく似せた製品を作ることができたといいます。
テンプルトンは、このシェニール絨毯に専念するため、ペーズリーからグラスゴーのキングストリート(King St.)に移転しました。ここで彼は、建物の床全面に敷きつめることのできる特注サイズの絨毯製造や、幾つものデザインを並べて一つの絨毯として見せるようなカーペット片を製造・販売して成功。1843年、兄弟たちとともにジェームズ・テンプルトン社(James
Templeton & Co.)を設立します。
最初の3年は赤字続きでしたが、その後経営は好転。1950年にはロンドン支社と支店ができ、翌1851年には従業員400人・資本金14,000ポンドの企業へと成長しました。1853年にシェニール織の特許が解禁されると他社が相次いで参入してきますが、テンプルトン社は好成長を続け、多くの専属デザイナーを抱え、国際貿易見本市では頻繁に賞を獲得したそうです。
1856年、設立以来の工場が火事で焼けてしまったのを機に、グラスゴーグリーン(Glasgow Green, 公園)に隣接したウィリアムストリートの古い紡績工場を買い取り、新工場を建てました。この通りはのちにテンプルトンストリートと改名されています。1869年には資本金35,000ポンド、その後10年間で102,000ポンドまで規模を拡大しますが、これだけに飽き足らないテンプルトンは業務を広げ、近くのクラウンポイントロード(Crownpoint
Rd.)に、より安くより庶民的なブリュッセル絨毯専門の新会社、J & JS Templeton & Co.を設立、長男ジョン・スチュワートと共同で経営にあたりました。この工場はやがて英国におけるブリュッセル・ウィルトン絨毯のトップ企業となります。
しかし70年代に入ると、絨毯市場が行き詰まりを見せ始めます。テンプルトンは、製造行程の更なる機械化でこれに対抗を試みました。78年に彼が引退した後は二人の息子が経営を引き継ぎ、弟が財務を担当する傍ら、兄は欧米を飛びまわってマーケティングに務めるとと同時に、工場の機械化も推し進めたそうです。機械化と業務効率化に当たってはライバル会社との競争に苦しみ、殊にアキミンスター絨毯を低価格で販売する戦略はかなりの抵抗にあいましたが、昼夜シフト制を導入するなどの努力が実り、第一次世界大戦直前まで高成長は続き、資本金648,000ポンド、生産高では英国トップにまで登りつめました。1892年に建て替えられたテンプルトンストリートの本社工場は、ヴェニスの総督府を模したオレンジ・黄・青のレンガ造りの美しい建物で、現存します。
テンプルトン社では早期から従業員の相互扶助基金や社内貯蓄銀行などを設け、労働者保護への出資を惜しまなかったといいます。1938年に有限会社として法人格を取得、1911年、37年、53年の各戴冠式には、ウェストミンスター寺院に絨毯を納める栄誉に浴しました。また、英国議会や豪華客船などにも納品しています。1955年までにグラスゴーに6つの工場を持ち、欧米各国や英国の植民地であった国に多くの代理店を構えています。
ところが、1968年にロンドンのグレイズ社(Greys Carpets & Textiles Ltd)を買収した一年後には、同じくロンドンのガスリー・コーポレーション(Guthrie
Corporation Ltd)に普通株資本を総て買い取られ、1974年にブリティッシュカーペット社(British Carpets Ltd)と社名を変更。その後、ガスリー社がスコットランドのストッダート・ホールディングスと提携したのを機に、ブリティッシュカーペット社の子会社はすべてストッダート社傘下となり、テンプルトンストリートの工場は閉鎖されてしまいます。2003年時点で、同社はエルダースリー(Elderslie,
グラスゴー郊外)に事務所を置く休眠会社として、ストッダート・インターナショナルPLC社(旧ストッダート・ホールディングス)子会社として存在するのみとなってしまいました。
本社工場だった建物は、ビジネスセンターとして現在も活躍中で、グラスゴー・グリーンの向こうに聳え立つ瀟洒な建物は、観光名所ともなっています。圭介の訪問は1872年のことなので、この建物は彼が目にした光景とは違いますが、場所は変わっていません。
>>Source: "Dictionary of Scottish Business Biography 1860-1960"
, vol 1 (Aberdeen, 1986)
>>本社工場外観
・工場写真
(20050411)
■□■辰ノ口糾問所。
フランス士官コラシュ(ウジェーヌ・コラッシュ、海軍少尉候補生)の手記、『箱館戦争生き残りの記』(有隣新書53『フランス人の幕末維新』M・ド・モージュ他)に、「日本の牢獄」という章がありました。
「江戸の町に入ったのは、どしゃぶりの雨の中だった。どこを見てもむき出しの壁と鉄線を張りめぐらされた門しか見えない建物らしきもののところまで駕籠で連れて行かれたのだが、そこは牢獄だった。われわれ一行が到着するにつれて、一人ひとりの名前が丹念に記載された。ついで、薄暗い、狭い廊下に通されたのであるが、その入口で、二、三人の役人に、所持品すべてを没収された。役人は所持品の目録をことこまかに作っていた。その後、別の役人に連行されて、文字どおり、監房に入れられた。」
ブリュネのスケッチなどを見ても、彼らフランス軍人たちが非常に観察眼を鍛えられていたことが判るのですが(実際、この本の中にはコラシュのスケッチに基づく牢内のイラストなどあって興味深い)、しかし問題は次の降り。
「日本の牢屋は、堅固な木の柵で二重に囲まれている幅およそ六〇センチの細長い部屋だった。収監された十五番の監房は、横の長さがおよそ三、四メートルだった。」
…いやあのその、60センチってことはないだろう…!? 何なんですかその異様な部屋。いくら圭介だって、そんな阿呆な設計はしないだろう(辰ノ口糾問所は、ここが陸軍歩兵屯所だったときに圭介が建てたもの)。慌てて南柯紀行を確かめてみました。
「見れば揚屋は幾局にも分ち、多く人数群居せり、我等は最奥なる一番室に入りたり、」「室内に入り見れば、四方は四ツ谷丸太の二重格子を以て之を囲い、六畳敷きなれども、囲の内に厠と流し箱とあれば、畳は四畳半なり、此内に七人納れられたり、」「四方窓暗く」(『南柯紀行』
p.98〜99)
「此牢の建法は、五局に分ちて、一番は我れ等の所領となること前記の如し、二番は一番と同じ、三番は格子一重なる故に、一番よりも明くして、畳も十三畳なり、四番、五番も三番と同断にして、南北格子にて、東西は隔板あり、隔板の間、空隙ある故、談話は勿論小さき物品は、互いに相通ずることを得たり。」(同、p.100)
「六番と七番は、我等の東京へ着の頃、新規に出来しものにして、是も二重格子にて窓小にして、室内暗く、」(同、p.101)
この牢内で圭介は、「仏人(コラシュ)四月二十二日入牢」という落書きを見つけます。入牢すぐの「一番室」でのことです。そこから考えると、コラシュの入れられた「十五番」監房=圭介の入れられた「一番室」という可能性と、コラシュと共に入牢した高雄(アシロット艦、コラシュはアシュヴェロットと記す)乗組の箱館方の兵らの誰かが、自分たちの名前と一緒に書き残したという可能性とが考えられると思います。実際コラシュは、最初は連行された「仲間たち」と共に「十五番の監房」に入るのですが、二日後には彼以外は皆、他の牢に移されたと書いています。
牢の狭さについては他に、「古い莚が下に敷いてあるが、それは、こんな狭い場所に詰め込まれた男たちのからだで全然見えない。備品といえば、片隅に水桶が一つあるだけである。」という説明があります。
…とはいえ、やっぱりいくら狭いったって、60cm×4m、なわきゃないと思いますが(笑)。でも、それじゃあ何の書き間違えだろう…?
圭介と同じ牢だとすると六畳間なんだから、6メートルじゃ広すぎるし、60インチじゃ狭すぎる。6フィートでも狭い。そもそも、当時のフランスの度量衡って何だったんだ…???
それはともかく(こら待て)、以下、コラシュによる糾問所描写をどうぞ。
「食事は日に三度出してくれたが、昼に干物の魚が少し添えられるほかは、ご飯だけだった。じつのところ、干物が好きでなかったし、今後もご飯しか食べられないかと思うと、あまりいい気分はしなかった。そこで、入獄の際、没収された金をすこしだけ返してくれるよう頼んでみた。すると願いは聞き入れられ、その金で、毎食、日本流の汁物を看守の一人に少しだけつくってもらった。」
「監房の柵はかなり隙間があいていたので、間に腕を通すことは容易だった。監房の三方はおよそ二メートルの間隔で、牢獄の外壁に面していた。外壁には、高い所にごく小さな窓があいており、そこから陽が差し込んできていた。私は、よく柵によじのぼって、わずかに拝める空や樹木の何本かを眺めては、気を紛らわしていたのである。そして監房の残る一面は、隣の監房の板壁に面していたが、外側の柵からそこまでの距離は、二メートルあるかないかだった。」
コラシュは牢内での、日本人たちとの交流を描いています。まず、最初に一緒に放り込まれた「仲間」については、「奇妙なことに、歩行中(連行中のこと)もそうだったが、こうした状況にあっても、悲嘆にくれる者はひとりもいなかった。日本の部下のこの平常心には、まことにあっぱれなものがあり、最後には、私もそれにつられて、雑念などなにもなく、心底から彼らの哄笑や悪ふざけに興ずるのだった。」
また、一人残された後、寂しく思っていると、隣の牢の男が話しかけてきます。その男の「独房」は「座っているか、横たわっているかのどちらかという狭さ」なのですが、彼は「楽になるためのやりよう」として、仕切り板の一枚を音もなく外してみせ、以降、二人は看守の目を盗んで四方山話に花を咲かせたといいます。
「われわれは、まもなく(中略)いろいろな小物も交換するようになったのである。布のように柔らかい和紙を用いて、私は長さ四メートルほどの細い紐を作り、端に、銭をいく枚か結び付け、その上で、柵から腕を出しては銭を、隣の男が開けた隙間に落ちるように投げ入れた。男が紐の端をつかんでしまえば、片方の端に送りたいものを結びつけ、あとは男が紐を手繰りよせればよかった。このようにして、私はお金をいくらか男に手渡したのである。看守のとりなしで、多少なりとも手心を加えてもらえるようにするためだった。ところが、男を最高に喜ばせたのは、筆と墨だった。牢屋内では、書くものを手にすることは厳禁されており、粘り強く頼んだあげく、私はとくに絵を描くためだといって、やっと看守に墨と筆を買ってもらっていたのであるが、隣の男にそれを分け与えたのである。その後は、いろいろな絵のやりとりがいつ果てるともなくつづいた。」
この、物品交換のやりとりの絵があるのですが、なかなか面白いです。
さて、コラシュは入牢後8日目に白洲に引き出され、日本語での「軍法会議」ののち、「死刑」の判決を下されます。6月16日明け方に牢を出され、「かつての日本人の同志たちにさらばをいわせてくれるよう頼」み、一人一人と握手を交わしたのち、駕籠に乗せられて「江戸の庶民的界隈をずっと行った後、三方を高い建物で囲まれたある広大な中庭の真ん中で降ろされたのであるが、残りの方角には、小運河が流れていて」、ここで彼は自分が本国送還となることを聞くのです。そして横浜でフランス軍の護衛艦に乗船すると、そこにはブリュネ以下箱館にいたフランス士官全員がいて、再会を喜び合ったのでした。
ちなみに、圭介は「小使に尋ねたれば、「コラシュ」は(アシロット)船乗組の人々と共に此に来り、十八日許後に出牢せりと、」と書き残していますが、この日付の差は、多少ずれがありますが旧暦と太陽暦の差とみていいでしょう。(この年、旧暦4月22日=新暦6月2日)
(20050405)
■□■良順先生の視点。
ひょんなことから入手した『松本順自伝』が面白くて仕方がありません。文体は論語そのもので少々とっつき難いものの、キャラが立ちすぎててもう(キャラって言うな)。誰に対しても歯に衣着せず言いたい放題、むしろ暴言連発。(笑)
新撰組の主治医として名高い松本良順氏は、天保三(1932)年生まれ。つまり圭介と同い年です。凄い豪快なおっさんというイメージの割には若いという事実は知ってましたが、そうか同い年…。
会津で徹底抗戦の意思を告げる土方を諭した件は有名ですが、旧幕軍脱走の報を聞いて弟子連れて会津まで追っかけるんですから、良識人と見せて実はこのひともまた血の気が決して少なくはないというか。実際に会津でやったことは素晴らしいんですけどね。←自腹切って医療品を揃え、日新館を病院に仕立てて、二百人以上の患者の治療の傍ら旧態依然の村医を指導して、戦況の悪化に伴い物資が不足する中、容保公に避難を促されるまで留まるのです。しかし、だ、会津を逃れて庄内に向かい、その後板倉・榎本に招かれて仙台に行き、そこで結局蝦夷行きに反対して横浜に帰った、その後もまた凄い。「予の横浜にあるや、壮志いまだ銷尽せず、少しく企図するところありしが、事みな画餅に帰して止みたり。謂(おも)うにこれ幸か不幸か。」 まだ何かやる気だったんか…!(←しかもその後、アメリカ逃亡なんかを勧められるのですが、家族を置いて一人では行かれないからと「意を決し、潜匿を止め、日々恣(ほしいまま)に散歩し、江戸横浜の間に往来して、彼のなすに任せたりしに、ついに捕吏の来たり縛するに至りたるなり。」
…好きだなあこういう豪快な人…。)
さて、その良順先生が何でこのコーナーに登場するかというと、自伝で圭介に触れているのです。一箇所だけなんですけどね。いやまさかなーと思って巻末の人名録をチェックしてみたら、あったんですよ圭介の名前が。公共図書館でぎゃあと叫びそうになったよ…。
で、その書かれ方ですが。
「官軍の先鋒漸々入り来たるも、いまだ大将の入府を聞かず。その後一月ばかりにして我が陸軍の仏蘭西伝習兵やや脱走す。大抵日光街道に出づると聞く。然れどもこれが首たる者なし。多くは壮年気鋭の人にして、ほとんど烏合の体なりし。やがて大鳥圭介これに加わる。然れどもこの人その位置の低きを以て、威令の行なわるるや如何、気遣わし。」
気遣われてるよ圭介――!(爆)
確かに歩兵奉行というのは、将軍と同衾しちゃったりする人からみれば地位が低いんでしょうけど。
ただこれ、伝聞を記しているので、ことの順序が妙なことになってます。圭介は伝習隊と一緒に脱走したはずで、それが後から加わったことになってる。同じく、12日に国府台に集合したはずの土方のことも、先刻の文のすぐ後に、「土方歳三もまた残兵四、五十を率いてこれに加わる」とあり、時間軸がおかしい(ついでに土方が連れていた新撰組は数人のはず)。ここから類推できるのは二説で、この自伝が書かれたのは明治になってからですから、良順先生の記憶が混同しているという可能性。それから、幕末当時の江戸の情勢として、三番町の歩兵とか他の脱走兵らの話がごっちゃになって伝わっていた可能性もあるかと思います。
それにしても、暴言オンパレードの中で、圭介に対するこの心配り(?)はいったい…。あんまり親しくなくてよく知らないからコメントを控えたという可能性も高いながら、旧知の榎本さんなんか、酷い言われようですよ。
「一日榎本予が寓に来たり、後事を託せり。予謂(おも)えらく、この人志(こころざし)壮に気鋭、幕人中やや望みを属すべきも、これを平生に徴するに、惜しむらくは慎重に欠くところあり、かつ自信篤きに過ぎ、動(やや)もすれば先入主となるの失ありて、人言を用いず、依って過あるに当たっては、これを諌むるも益なし、今回の挙もまた恐らくは成功し難からんと思いたり。」
これだけ読むと、榎本さんのこと嫌いだったのかしらと思うんですけど、「海陸軍人中親友の脱走する者すこぶる多きを以て、これを棄つるに忍びず、走って生死を共にせんと欲す。」という部分と、仙台から手紙を貰って、リューマチで身動き取れないのに肩輿に乗って駆けつけ、「開陽丸に至り、榎本その他知人に逢う。あたかも海外に故人に逢う思いあり。款語数時、悲喜こもごも至る。」という部分から見れば、決して榎本さんのこと嫌ってはないんですよ。…やっぱり圭介のアレは、知らない人だからなのか…。
(20050403)