本日の鳥飯。
■□■工手学校と大鳥圭介
久々に「大鳥圭介」でググって引っ掛けたネタ。
工学院大学の学園広報誌「窓」の2003年度137号(2004年1月7日発行)に、
「学園100年史の横路 旧幕府歩兵奉行・大鳥圭介、工手学校開校式に現る。」
という記事がありました。
…なに、なんなの、この無駄に恰好よさげなタイトルは!?(笑)
――若干興奮気味のまま読んでみました。えー、この記事と大学HP内容によると、工学院大学の前身は明治20年に創建された「工手学校」で、富国強兵の下支えとなる工手の育成のためにつくられたそうです。創立者の渡辺洪基(初代管理長、今でいう理事長にあたる)は医家の出で、蘭学を学び、佐倉順天堂の佐藤尚中(松本良順の父・佐藤泰然の養子)について理学を修めた人物らしい。慶応義塾で英学を修めたのち幕府の西洋医学所に出仕。戊辰戦争の時は、松本良順(当時西洋医学所総取締)について会津へ行き、負傷者の治療に当たった。会津で英学校を開いた後、外務省に入り、遣欧使節団に同行。帰国後太政官・外務省・司法省に勤務、元老院議員を経て17年に工部小輔となる。その翌年に東京府知事、更に翌19年には東京帝国大学の創設とともに38歳の若さで初代総長になったそうな。
工学院大学はその渡辺が、「帝大出の技師、技術者の下で生涯技手(士)として働くことを希望する中堅級技術者を養成する目的として」、森有礼に建言して創設したのですが、このとき森との会話として紹介されている遣り取りが、芝居がかってて楽しい。
「…それで、校長は誰を考えておるや?」
洪基に、すでに腹案ができていた。
「旧幕臣で榎本武揚とともに函館に渡った大鳥圭介君を校長に推薦したい、と考えておりますが。」
「貴君が戊辰戦争の際、会津・庄内藩へ行き松本良順らとともに幕軍・官軍を問わず負傷兵の介護にあたったと聞いているが、その時の縁で知り合った御仁か?」
洪基は深く頷く。
…元々の話は、地方紙「県民福井」(渡辺は福井出身)に去年、「蒼空を駆けた男 偉人渡辺洪基」(文殊谷康之)という連載があり、その中に紹介されていた話らしいです。「県民福井」のサイトもチェックしてみたのですが、思いっきり普通の地方ニュースサイトで、過去記事検索はできませんでした。(ちぇっ)
圭介と渡辺の縁は、調べてみるとこれだけではなくて、たとえば圭介は工学寮工部美術学校の校長をつとめていますが、渡辺は明治22年に結成された明治美術会の会頭をつとめており、美術関連でのつながりもあったかもしれない。それから、東京地学協会が「贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表」を建立する際の提案の一つが、「渡辺洪基、大鳥圭介、大倉喜八郎、渋沢栄一ら」の連名で出されたそうです。また、東京女学館の創立委員会である女子教育奨励会(委員長・伊藤博文、明治20年発足)のメンバー22名の中にも、お互い名前を連ねています。その他、工手学校の発起メンバーや教授陣は、工部大学校(工学寮)一期生の辰野金吾(日銀旧館・東京駅の建築設計で有名)をはじめ、当時の工科大学の教授・助教授たちだったそうですし、だいたい圭介なら、この学校の設立趣旨を見るだけでも諸手を上げて賛同しそう。
もっとも、圭介が断ったのか、渡辺の気が変わったのか、初代校長は化学者で弱冠29歳の中村貞吉に委ねられました。(気が変わったんだとしたら何でだろう…。←や、たぶん圭介が断ったんだと思いますが。当時、学習院長と女子学習院長を兼任してましたし。)
ともかく、そんな縁でこの開校式に招かれた圭介。工業の育成を軍隊に譬えています。
「今日本工業の有様は (中略) 技師技手の困難亦神代なり是れ工業の各科を分担する適当なる工手を得難きに由るなり之を軍事に譬ふれば既に数多の将校を得たるも未だ曹長又は軍曹其人を得ざるが如し夫れ軍陣に臨み如何なる名将勇卒あるも中間に立て将を助け卒を導き小隊或は半小隊の進退動止を分担するに軍曹なければ一戦をなす能はざる一般なり」
どんなに上官が素晴らしくても、下士官がちゃんとしてなきゃ軍隊は成り立たないんだよ、と。
――幕府陸軍の黎明期の試行錯誤をちょうど調べてる最中なので、そりゃ苦労したよな思いだすよなー、としんみりしてしまいました。と同時に、圭介と伝習隊の関係を思うと、この言葉は裏をかえせば、「下士官がしっかりしてれば上官が多少頼りなくったって大丈夫なんだよーvv」と読めてしまわないかなー、とか。
一人できゃ★と赤面してみたりしてました。(…。)
まあ参列者の中には軍人も沢山いたみたいなので、そっちに配慮して…という背景もあるのかもしれないけど。ちなみに、当時の時代背景はというと、この年春に黒田清隆が第2代内閣総理大臣に就任してまして、それから2年後の明治22年に圭介が清国駐在特命全権公使に任命されます。
(20051212)
■□■伝習隊メモ: 3 幕府三兵伝習の流れ
「幕府の三兵士官学校設立をめぐる一考察」(宮崎ふみ子)を主軸に、『陸軍歴史』(勝海舟)、『陸軍創設史』(篠原宏)、『幕府歩兵隊』(野口武彦)なども交えつつ。
以前、「幕府の洋式陸軍自体が急場凌ぎの連続で作られていったため、指揮系統も構成も統一されていない諸隊を無理矢理総称して、幕府陸軍といっていた」と書きましたが(鳥飯008
「伝習隊メモ」参照)、どうやらそうではなく、かなりの長期計画だったため、色々と整理しきれていないうちに戊辰戦争に突入しちゃった、というのが真相みたいです。
●伝習の形式について、或いは伝習隊成立の経緯。
俗に、幕府の陸軍の調練形式は、オランダ式で始まり、イギリス式に移行し、最終的にフランス式になった、と言われますが、どうやらこのうち実際に「伝習」が行われたと言えるのは、フランス式だけのようです。
まず、オランダ式ですが、これはオランダ軍は全く絡んでいない、日本人による独自の取組みです。「オランダ式」と呼ばれるのは、その調練が蘭語から訳した兵書を元に行われたから。高島秋帆が天保12年(1841)に行った本邦初の洋式兵術の実演は、秋帆が訳したオランダの『歩兵操典』(訳書名『西洋銃陣』)に拠っていたといいます(『陸軍創設史』,
篠原宏, pp17)し、イギリス式に移行する以前に重宝された兵術書の一つである圭介訳の『歩兵練法』(元治元年)も、オランダの兵術書を訳したものです。
ただ、理屈は解っていても実際を知らない者たちばかりだから、実質的に出来たのは、銃砲の取扱い方と足並み調練程度だったらしい。宮崎氏は、文久2年の陸軍創設時に、「英米両国の内より陸海軍士官を招いて伝習を行わせる」という建言が出されたが、却下されていること、元治元年(1864)9月付けで、陸軍奉行並から、「三兵の指揮官格の者から5人、兵書の研究者から1人、計6名をオランダに留学させ、三兵操練、築城学、軍律学、軍学、器械学、測量学、火工術、大砲製造、反射炉建設などを修得させる」、という建白があったが、これも却下されたことを記しています。
幕府が、オランダ留学の代わりに提案したのが、横浜駐屯中の英国軍から伝習を受ける、という案で、元治元年10月に計画が作成されました。これが所謂イギリス式調練ですが、この時に幕府から横浜に公式に派遣されたのは、選び抜かれたたった15名で、小規模なものだったことが、『陸軍歴史』(勝海舟)に収められた建議および上申書から判る、と宮崎氏。
この時点での歩兵の熟練度がまったくお話にならない状態だったことが、『陸軍歴史』掲載の栗本鋤雲著『横浜半年録』に詳しいというので見てみると、「元治二年三月頃」に小栗上野介と浅野美作守が揃って訪ねてきて、陸軍の現状と今後の対策について相談があった、という。二人の言うことには、
「そもそも廷議旧来の軍制を廃し、洋制に傚(なら)い、始めて騎、歩、砲の三兵を編みたるは、文久二年の事にして、すでに四、五年を経たれど、その事固より一時の仮定に出でて、且つ中間種々の障礙(しょうがい)あり、それに連れて事功挙がらず、今以て一定の規律立たざるのみならず、目的さえも未だ確定せず、 (中略) 訳本三兵タクチーキ〔高野長英訳〕の書等に就き、高畠五郎、大鳥圭介等に問合せ、交ゆるに各自憶測等を以てし、兎角して漸く真似事までの面目を取り繕いたるまでなれば、その実、口へ出して三兵などとは云ひ兼ぬる場合なり。」
…とまあ、相当の酷評でした。栗本鋤雲はこのとき始めて、幕府の「三兵」が「名ありてその実なく、且つその杜撰に出でて、何国の式によると云うにも非ざるを知り、大いに驚き」、それならば現在、神奈川定番役が林百郎の監督で英国式調練をやっているそうだから、この男を採用してみてはどうかと提案するのですが、小栗と浅野は「山手英兵が調練を柵外より窺いそのために習うが如きは我が屑(いさぎよ)しとする所に非ず」と笑い飛ばします。
そこで、栗本は、自分が箱館でアメリカ人と会ったときにフランス兵とイギリス兵の強さを聞いたこと、世界の公論で「海軍は真に英勁く、陸軍は真に仏強き」といわれる証拠を、メルメ・デ・カシユン(メルメ・デ・カション、1855年にフランス船リヨン号で日本に向かった3人の宣教師のうちの1人で、仏公使ロッシュの補佐役・通訳)から得た、と説明し、ロッシュに相談して教師を派遣してもらう計画を立てた、といっています。
ただし、『幕府歩兵隊』(野口武彦)は、神奈川奉行所の下番が行ったイギリス式もそれなりに本格的なものだったと書いています。これは奉行所が独自に英国軍に申し入れたもので、「当時は稽古人日々数百の出席に相成り、右教導方の者(教師)は頭取を始め、槍剣又は砲術その余練兵など、それぞれ早天より修業人引き請け、品に寄り終日にも及び」と書かれた『神奈川奉行御用留』を引用して、その盛況ぶりを伝えているとし、最終的には調練を受ける人員は2000人に達したとあります。
けれど、この引用箇所に「槍剣又は砲術その余練兵など」とあるところを見ると、オランダ式調練同様、銃・銃剣・大砲の取扱いと足並み調練が中心で、日本人の士官が独自に指揮をする軍隊の育成、といったものではなかったのではないでしょうか。また、英国側も日本側も、本来の役務に加えての調練ですから、遅刻や休みが多かったという記録もあります。駐屯していた部隊の司令官・ブラウン大佐は協力的だったといいますが、英国大使がオールコックからパークスに代わると、一転して英国側の腰が重くなった、という事情も影響しているもよう(篠原氏)。野口氏が「イギリス式調練の成功例」としてあげている「日英合同演習」(慶応2年2月5日、本牧)も、篠原氏は逆に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されたワーグマンの絵を参考に、「幕府の兵卒は、いぜん槍をかかえて、大小を差して一列に走っており、洋式練兵は、まだまだの感じである」と感想を述べています。
ちなみに、「イギリス式」といわれる古屋佐久左衛門は、元治元年の英国伝習の上申書には名前はありません。が、彼はちょうどこの当時横浜の英学教授方助として赴任していて、神奈川奉行所の支配定番役頭取取締であり日英合同演習の日本側司令官を務めた窪田泉太郎と行き来があったので、このときにイギリス式伝習を受けたようです。
ともかく、こういった経緯でフランス伝習が始まるわけですが、実はここでフランス式の採用へ方針転換がなされたのは、別に幕府の腰が据わらなかったからというわけではなく、偶然の産物でした。上記資料で栗本は在日フランス公使レオン・ロッシュに直談判したと書いていますが、小栗の提案を受けた幕府側は、英国とフランスの両方に陸軍教官派遣の依頼をしているのです。宮崎氏は、オランダ式、イギリス式の調練と、フランス式の伝習との違いを、「士官教育がされたか否か」で区別していまして、そこから察するに、このときの依頼内容というのは「欧米に匹敵する陸軍育成にかかる本格的な訓練補助」であり、幕府としては教師を派遣してくれるならどっちでもよかっただろうことが推測できます。
ところが、先にも触れたように、新しい在日英国大使・パークスは、この件に消極的だった。一方のフランス側は、ロッシュが本国に対し「幕府が強力な正規軍を持つことは、攘夷派を抑え条約を履行することにつながり、外国側に利益があるだけに止まらず、イギリスの横浜駐屯軍に対抗してフランスの軍事力を内外に知らしめる意味を持つ」という趣旨の要請をしたことから、話がトントン拍子に纏まった。教官団の人数や概要を幕府とフランス側で協議した結果、まずシャノアン大尉を団長とする15名が慶応2年末(西暦では1867年1月)に来日し、最終的には計19名の教官が、はじめは横浜太田村で、慶応3年6月からは江戸において、二大隊の士官・下士官・兵卒に伝習を施しました。
このとき太田陣屋で伝習を受けた隊は、田島応親(金太郎、箱館で通訳を務める)の後日談によれば、「模範隊」として江戸の諸隊から選抜された歩兵たちであり、シャノアンの建白にある「伝習の事、既に陸軍教師へ任せられたれば、その教導を受くる者、追っては他の日本人を訓練する人となりて日本人の教師たるの用勤をなすべし」(『陸軍歴史』,
pp317)という文言を合わせると、これがただの歩兵調練ではなく、士官育成を目的としていたことが察せられます。シャノアンが慶応3年3月に本国の陸軍大臣に送った手紙によれば、当初の伝習は「60名の歩兵士官、20名の砲兵士官、騎兵連隊の幹部である士官、軍曹、伍長が一大隊、全部で230名」だったようです。この数字は、圭介の「最初四五十人でありました、段々増して二百人程出来上った」(『大鳥圭介伝』,
pp455)という談話とほぼ一致します。圭介の談話からは他にも、横浜の伝習が士官育成を第一目標としていたこと、指図役の養成が終わってから屈強な歩兵を募ったことが判ります。
来日当時の4月、シャノアンは「日本の士官、欧羅巴の調練及び行軍を学びたるもの多し。然れども未だ熟練せず、能くこれを用い、且つその要を選ぶために欠くべからざるところの、諸種の知見あらず。」(『陸軍歴史』,
pp324)と評しました。その後フランス教官団は、たった一年弱の短い期間に幾つもの建白書を提出しており、真剣に幕府の陸軍育成に取り組んでいた姿勢が窺えます。これらの建白書のうち、内容が知れるのは、『陸軍歴史』に収められているシャノアン、ブリュネ、メッスローらの手による数通だけですが、それを読むだけでも彼らの真摯な態度がよく判ります。
建白書の意見がどれだけ幕府に採用されたかは不明ながら、たとえば幕府はシャノアンの提案に沿って士官学校を設立し、追々現存の軍事組織の指揮格の者と士官学校の卒業生とを入れ替えていく計画を立てていることから、実際には軌道に乗る前に幕府が倒れて頓挫してしまったけれども、あと数年の猶予があれば、基礎教育から専門教育までの、西欧の水準にかなった本格的な軍人教育制度が完成していたのではないか、と宮崎氏。そして、これら幕府の「国防軍構想」は、維新後の明治政府に引き継がれていくのです。
こうして見ると、伝習隊が当時の日本で最強だったかはともかくも、最もシステマチックな軍隊であり、下は兵卒から上は指揮官まで徹底して統制のとれた部隊だったことは事実のようです。何せ、幕府の本気が具現した存在、ですから。官軍側が「剛強無比」だの「弾丸の向ふ所、鵠を誤らず、彼れ伝習隊に非ずんば、奚ぞ之を能くせんと」なんて言っちゃうのも無理はない。ただ、やっぱり、一通りの本格的訓練を修めてはいてもまだ、そもそもの立場が「模範隊」なわけで。すぐさま実戦に投入してどうにかなるような完成された状態じゃあなかったわけで。
…うん、まぁアレだ、圭介、ご苦労さんだったね…。(笑)
(20051204)
■□■伝習隊メモ: 2 「三兵伝習」について
『年報・近代日本研究-三――幕末・維新の日本』所収、「幕府の三兵士官学校設立をめぐる一考察」(宮崎ふみ子)からの纏め。(この論文は非常に註が細かくて有難いです。実際手元に持ってる資料でも、手引きがないとなかなか探している事象には辿り着けないものでして。)
●「三兵」とは何か?
幕府が文久2年に設立した「陸軍(常備軍)」は、撒兵を含む歩兵、騎兵、砲兵の三種類の部隊を持っていました。この三兵による陸軍編成は、当時西欧諸国で全盛を誇っていた「三兵戦術」を前提としています。
「三兵戦術」とは、三十年戦争(1618-48、神聖ローマ帝国)中に、スウェーデン王グスタフ2世アドルフ(通称「北方の獅子」)が創始し、フリードリヒ大王(プロイセン王フリードリヒ2世)が完成したとされる、歩兵・騎兵・砲兵を総合的に利用する戦術のこと。
ただし、幕末の日本に特に影響を与えたのは、これを元にナポレオン1世が編み出した新戦術らしく、高度な連携プレーが必要だった模様。宮崎氏が引用している『近代軍事技術史』(小山弘健)を孫引きすると、
「戦闘隊形では散開した散兵線と密集した縦隊との二線がつくられ、砲兵の掩護のもとに最初散兵が前進・攻撃し、ついでうしろの密集縦隊が突撃してゆく。七十門から百門までの砲兵集団が決定的瞬間まで予備としてのこされ、その瞬間がくるや突然突破口または決勝地点に猛射をあびせかけ、総予備歩兵の最後の突撃にみちをひらく。この突破は乗馬砲兵隊をもつ独立の騎兵集団によっておこなはれる迅速果敢な襲撃と追撃によって完成されるのである。」
※ナポレオンの戦術の詳細は、こちらのサイトが詳しいです。
●「撒兵」(さっぺい)とは何か?
幕末史料にたびたび出てくるこの言葉。『三省堂大辞林第二版』によれば、「江戸幕府が1866年に創設したフランス式教練を受けた兵隊。さんぺい。」とあります。が、もしこのとおりだとすると、太田陣屋で伝習を受けた部隊であり、伝習隊=撒兵、となる。(1866年=慶応2年。幕府の仏式伝習はこの年に計画され、翌年1月に教官団が来日、伝習が開始された。)
たしかに、『大鳥圭介伝』には圭介の談話として、横浜で士官伝習を受けたのが当初40〜50人ほど、後に200人ほどに増え、その下につける「撒兵」として博徒や陸尺(駕籠かき)、馬丁など雇った、と言っています。この文脈でいうと、「撒兵=伝習歩兵」という位置付けになります。
しかし、上記の宮崎氏の論文は、撒兵とは文久の改革で設けられた「歩兵のうちで別に御持小筒組として編成され、慶応2年9月に撒兵と改称されたもの」であり、文久2年6月上申書に記された人員配置計画の「先鋒軽歩兵」がこれにあたると考えられる、としています。文久の改革の時点で歩兵の組員(兵卒)について、宮崎氏は、「旗本御家人が石高に応じて幕府に差出した兵賦によって構成された。兵賦は五ヵ年季勤めで、それぞれ主人又は雇い主の旗本から給料を受け、糧食・被服は幕府から受け、江戸府内四ヵ所の屯所に駐屯し、操練を施された。その身分は等しく帯刀以下とされ、たとえ本来士分の者であっても、歩兵組勤務中は帯刀以下として扱われた」と説明している一方、「御持小筒組」については、通常の歩兵とは別に、「小普請で目見以下・五〇俵以下の者」が宛てられていたと考えられるとも書き、文久の軍制改革の特徴として、幕府陸軍は「兵卒には足軽相当の武士や軍役として徴発された平民を当てて構成」したと指摘しています。つまり、この解釈に従うと、「撒兵」は「1866年に創設したフランス式教練を受けた兵隊」ではない、ということになります。
そこで、天下のグー○ルさんに頼ってみたところ、大阪大学の国文学助教授先生のホームページで、「明治初期の漢語辞書『日誌字解』を電子テキスト化したもの」に出くわしました。それによると、
「撒兵,サッヘイ,イロ/\ニハタラクヘイ」
とのこと。辞書の発行年次は「明治二年序」となっているから、幕末期の史料に書き残されている「撒兵」の意味は、これで間違いないでしょう。これはナポレオンの戦術でいう「軽歩兵」に当たると考えられます。軽歩兵は、本来的には一般の歩兵(戦列歩兵)と区別するべき部隊なのですが、現実にはフランス軍でもだんだん両者の戦場での役割に差がなくなってきてしまっていたらしい。欧米の兵学書を幾つか訳している圭介のことだから、そのあたりのことを踏まえて「歩兵=撒兵」と理解していたのかもしれない、と考えるのは贔屓目でしょうか?
ちなみに、浅田惟季の『北戦日誌』の中では、「散隊」(兵を散開させる)の意味で「撒隊」の字を当てている箇所もあるので、当時の感覚としてもけっこう混ざっちゃってたという可能性も捨て難い。
(20051203)
■□■『事典・近代日本の先駆者』より
『事典・近代日本の先駆者』(日外アソシエーツ)には、「そのジャンルにおいて日本人で初めて〜した」という基準で近代の各種功績が人名別に羅列されているのですが、そこに紹介されている圭介の功績。
「搾乳業(牛乳製造)のパイオニア」「写真研究家のさきがけ」「琵琶湖疎水事業の推進」「洋式築城の紹介」「洋式軍装の導入」
…疎水の件が入ってるというのが意外でした(笑)←ちゃんと朔郎推薦の経緯が説明されてますv
牛乳については、他にも搾乳業をはじめた人の名前を羅列し、その中には榎本さんの名前も上がっているにもかかわらず、「榎本武揚」の項には逓信大臣のことしか紹介されていないという不思議。圭介は、「名義を別人として搾乳業を行っていた」そうです。…釜さんとの共同経営じゃなかったの?
「洋式築城の建築」は武田斐三郎の功績となっているのですが、そこにも「大鳥圭介訳の『築城典刑』で洋式築城法を修得している」と解説されていて、よしよしと思いました(笑)
ただし、活字印刷については、本木昌造に譲ってます。
圭介関連で他に目が止まったのは、江川太郎左衛門(担庵)の「パンの元祖」。
近代兵器で装備した外国軍と戦争する場合を想定し、「従来のように握り飯を弁当にしていたら敵前で炊飯をしなくてはならなくなり、その炊煙めがけて敵に攻撃される」と考えた江川さんが、「韮山の邸内にパン焼釜を急増し、高島秋帆の従者・作太郎に命じてパンの製造を行った」らしいです。試作が成功したのが天保13年4月12日だそうですから、結構はやい時期ですね(圭介10歳!)。一年間保つということから乾パンだろうとのこと。
以前、メッセージから「松前藩が榎本軍との戦いの為箱館の店に兵糧用のパンを注文した」という記録があるというお話をいただいていて、額兵隊の喇叭手の「一奇談(in
南柯紀行)」などもあるし、そうか箱館軍はパン食だったのね…と思っていたのですが、20年も前に乾パンが作られていたのなら、当然、幕府三兵の軍用携行食はパンですよな。だけど、たとえば会津山中なんかじゃパンを作れる人なんかいないから、辿りついた先で米を探すとか、餅を搗いて携帯する、という対策が取られたわけです。
…乾パンって当時の人の口にはどんなかんじだったのかな。(私は子どもの頃に非常食の乾パンが古くなったからといって食べたことしかないけど、ボソボソしててあんまり美味しくなかったという記憶しかないです)
そのほかの幕末人では、沢太郎左衛門が「火薬製造のパイオニア」、諭吉が「著作権主張の先駆者」(慶応2年ですって)、沼間は「演説のパイオニア」(嚶鳴社のことを指してるらしい)、伊藤博文が「首相施政方針演説の初め」で、聞多が「ダンスパーティのはしり」(鹿鳴館のこと)、そしてヤジが「軍歌第一号」(トンヤレ節)などが載ってました。あと、高峰譲吉がフスマでウィスキーを発明したんだけど普及しなかったってネタもあった。
「え…?」って思った点としては、この本の人物紹介の基準がよく判らないんですが。
だって、圭介が「外交家」の一言で片付けられてるんだよ! 釜さんは「幕臣、軍人」となってて、沼間は「政治家、ジャーナリスト」。江川先生は「兵学者、民政家」。…間違っちゃいないが、何故そこだけを取る!?
…圭介が外交に携わったのって一時期だけじゃないか…。
そんなふうに微妙な箇所もある本ですけれども、読み物として面白いことは確かです。
(すごく笑い転げつつ切なかったのは、江藤新平の「手配人相写真による犯人逮捕第一号」…。いや事実なんですけど。佐賀役後に自分でつくりあげた警察網に引っ掛かって処刑されたんですけど。でもそれを「先駆者」扱いされるってのも…。ちなみに索引のジャンル分けでは、この経歴は「体験・変わり種」に分類されてます。……切ねえ…。(T
T) ←江藤好きなんです)
(20050904)
■□■安藤太郎の圭介評 おまけ考察
バードウォッチングで散々圭介弁護に走った『大鳥圭介伝』所収「名士の談話」の安藤太郎のコメントですが。
補足というか蛇足というか、もしかして、と思ったら止まらなくなってしまった妄想をもう一つご紹介。
某公共放送の『日本語なるほど塾』 8-9月テキストが「イキで勝負!東京言葉」ということで、東京ッ子としてはちぃっと中身が気になったわけです。葛生さんは「夜話」でもバラしてるとおり、新宿の木戸の外の生まれ育ちなので江戸っ子ではないですが、それでもやたら口が悪いこととか、「よく言えばさっぱり、あっさり、逆から言えば我慢できない短気さ」だとか、「ちょっとぐらいのこと、どっちでもいいことはすぐ妥協するけれど、だめなものは絶対にだめで徹底抵抗する」とか、なんかこう思い当たる節に笑い転げてしまう内容でした。
で、もしや、と思ったのは、次の箇所。(筆者は林えり子)
「東京人の "口の悪さ" はかなりのものだと思います。口が悪いというより、素直にものをいわない、ひねくれてものをいうところがあるのです。」
「なぜ、偽悪的な口の悪さをあえて使うかといいますと、一種のテレ隠しなのです。たぶん、感情表現が素直でストレートなのは、素朴だという証拠。素朴さは田舎者に通じます。これに対して我ら江戸以来の都会人は、いつもひと捻りしたものいい、こう斜に構えて物事を見る、という、特有な感情が東京人にはあるように思います。諧謔精神旺盛な江戸川柳を生み出した人種の末裔なのです。」
「こんな句があります。"芭蕉翁、ぼちゃんというと立留り" (…) 芭蕉翁は偉大だから、揶揄の対象になったのです。権力や地位については辛口で勝負というのが、江戸っ子の意地でありハリだったのです。」
「ほめことばは不粋なんです。ほめずに貶す、口の悪さは粋に通ずという、まったくへんてこりんな理屈でもって生きている、変な人種が東京人ということになるでしょう。」
ここで林女史は、東京人=江戸人の末裔、という前提で話をしてますから、↑の気質は江戸っ子から受け継いだものということになる。
………あの、その、もしかして安藤太郎が江戸っ子だったりしねえか…!?
――と、いうわけで、図書館に駆け込みました。安藤は大正まで生きてるので、『明治過去帳』ではなく『大正過去帳』を参照。
「蘭学者、禁酒運動家。 (…) 生粋の江戸っ児。」
うお!…と思わず図書館でにやけてしまいましたです。(笑)
ただ、安藤のお父さんが確かどっかの藩の藩医だったんじゃなかったか…と思ってさらに調べたところ、朝日新聞社『日本歴史人物事典』(1994)には、「父安藤文沢は現在の埼玉県毛呂山町出身、鳥羽藩医で種痘の先駆者」とありました。
…お父さんが埼玉出身じゃ、「生粋の江戸っ子」じゃないじゃん…。←江戸っ子は三代続いて初めて江戸っ子。たとえば片親が江戸外出身なのは「斑っ子」と言ったらしい。
ただ、「漢学を安井息軒、蘭学を坪井芳州、英学を箕作秋坪に学び」ともあるので、江戸育ちではあるらしい。
安藤については、ざっと当たれる資料のどれもが戊辰戦争以降、詳しいものでも海軍操練所以前の経歴があんまりよくわからないので、実際のところ何とも言えないのですけど、ただ江戸育ちで江戸っ子の気風を持ってる人だったらいいなあ…、とオオトリスキーはぽつんと呟いてみるですよ。
圭介は偉大だから揶揄の対象になったんだと思いたいですよ。(あいたた)
(20050903)