本日の鳥飯。
■□■伝習隊メモ: 5 「伝習隊」の構成に関する覚え書
ちょっと順序があべこべになりますが、別件で探し物をしていてちと面白い符合にぶつかったので、慶応4年初春の伝習隊の構成について。参考文献は、『幕府歩兵隊』(野口武彦)と『勝海舟全集17:
陸軍歴史』です。
「伝習隊」と称していたのが、伝習第一大隊と第二大隊の2大隊だけだったのか、また伝習隊の屯所が大手前と小川町の2ヶ所だけだったのか、という点についてはずっと疑問に思っていて、現在のんびり解明中なのですけれども、脱走直前の伝習隊の構成については、鳥羽伏見関連の史料が参考にできます。『陸軍歴史』第二十八巻「陸軍編成(下)」に、次のような編成表があります。
「 陸軍役々、歩兵人員
一、歩兵第一聯隊 千人
一、同 第四聯隊 千人
一、同 第五聯隊 八百人
一、同 第六聯隊 六百人
一、伝習第一大隊 八百人
但し、予備隊とも
一、歩兵第七聯隊 八百人
一、御料兵 四百人
一、伝習第二大隊 六百人
一、歩兵第八聯隊 八百人
一、歩兵第十一聯隊 九百人
総計七千七百人 」
この編成表の前後の書類は、おそらく慶応元年のものと思われるのですが、慶応元年に伝習隊はまだ設立していないので、この一通のみ編集過程で紛れてしまったとみるべきでしょう。『幕府歩兵隊』で野口氏は、この編成表を「ちょうど鳥羽伏見の戦前後の慶応四年一月のものと思われる」としています。
鳥羽伏見の戦では他に「第十二連隊」が大坂で徴募されているようですが、この史料を信じれば、慶応4年当時、「伝習隊」という名前だった隊は、第一大隊と第二大隊の2大隊です。『陸軍歴史』をざっと見たかぎりでも、第一、第二のほかに「伝習隊」という部隊は存在していないようです。
これは圭介が晩年の談話で語った「横浜の太田村で練兵をして居ったが、旧幕の陸軍の都合で、横浜より江戸の方へ其兵隊を引上げると云ふことになった、(中略) 其兵は二大隊位しかない、夫れを連れて来て、大手前の屯所に置いた、(中略)
夫れから追々兵数も増して四大隊位あった」(『大鳥圭介伝』)という内容と矛盾します。が、圭介の談話にはこの他にも幾つかの矛盾点があるので、とりあえずここは『陸軍歴史』を信用して先に進むことにします。
また、伝習第一大隊の総員が大手前に駐屯し、第二大隊の総員が小川町に駐屯していたのか、という点もいまいち不明なんですが、常識的に考えて大隊は一纏まりで活動しているとみなせるので、大隊数が2つなら、この2ヶ所を分け合っていたと考えていいんじゃないでしょうか。
さて、伝習第一・第二大隊のうち、慶応4年4月12日に市川国府台に集結した人数は、第一が約700人、第二が歩兵約450人+士官3〜40人。第二大隊には他に伝習生徒が4〜50人、途中から加わっています(『南柯紀行』)。
これらの数字の符合から、a) 鳥羽伏見に参戦した第一大隊は人材の損耗があったはず、b) 温存されていたはずの第二大隊から更に人数が減っているのは、脱走に賛同しない者(落伍者)が出たのと、別途先に脱走した兵がいたからではないか、ということを考えていたのです、が。
それでも、計算が合わないのですね。というのは、勝海舟が晩年に記した回想記『解難録』によれば、慶応4年2月5日に、「伝習隊」の歩兵400人が「脱営して高田馬場に集まり、八王子方面へ脱走」(『幕府歩兵隊』)しているのです。原典にあたっていないこともあり、所属や屯所は判りませんが、日付からみて有名な三番町屯所の事件ではありませんし、沼間が脱走したときのことでもありません(沼間は脱走時にごく少数の士官のみ連れていきました)。この400名は、いったいどこから湧いてきたのでしょうか?
この計算の不整合を解明する、かもしれない文書が、次のものです。
「辰正月九日改め
歩兵 五百人 三番町このたび上坂
三百五十人 三番町
七百人 小川町伝習兵
六百人 組合御抱
替市兵 合せて六百人、第六聯隊と称す
右当時在府
新募兵千六百人
内二百人
内二百人 第二大隊デポー 〔depot〕
内二百人 第三大隊デポー
五百人 第三大隊 」
辰正月というのは、戊辰の年、すなわち慶応4年1月のことです。まず、小川町の伝習隊の人数が、100人増えて700人になっています。ただ、これでも数字は足りない。そこで次の、新規募集の兵のところを見てみます。200人の兵が、「第二大隊預かり」になっています。("depot"は英語にすれば"deposit"、預け入れるという意味です)
次の「第三大隊」が何(どこ)を指しているか解らないので一概には言えないのですが――それを言うなら、最初に上げた資料の「伝習第一大隊 但し、予備隊とも」という註釈も気になる――、仮にこの「第二大隊」というのを、伝習第二大隊とすると、<700+200=900>という数字が出てきます。
そして、この900という数から、2月5日の脱走人数の400を引くと、脱走時の伝習第二大隊の人数とほぼ一致するのです。
鳥羽伏見に参戦した歩兵隊が大坂から帰ってきたのが、1月下旬。その後、伝習隊の再編成があっただろうことは、上坂した大川が、脱走時に伝習第二大隊の所属になっていることから窺えます。どの程度の補充や異動あったのかは解りませんが、陸軍上層部の人事もこの時期大きく動いているので(主として短期間に出世する人が多い)、上官が昇進した煽りで部下も昇進していく、という流れは少なからずあったでしょう。
陸軍上層部は、徹底抗戦と講和の両極端で割れていて、実戦指揮官に近づけば近づくほど、抗戦を主張する傾向にあったようです。よって和平の道を探る一方で、兵隊の新規募集も行われていました。これは、「伝習生徒」、すなわちシャノアンの提言によって幕府が作った士官学校の生徒とは別で、集めていたのは歩兵だけだったと考えられます。
実際問題、そんな急場凌ぎの兵隊を、幕府虎の子の伝習隊に入れるというのはあんまり現実的ではないですし、また歩兵人数というのが士官を含んでいる数字かというのも、記録上統一されているかどうかは怪しいので、単純な算数で答えは出ないとは思いますが。
でも、ちょっと面白いかなと思ったのです。信憑性はあまり高くないです。(笑)
(20060117)
■□■明治2年初秋新刊・官製(吉田屋文三郎)東亰絵図
圭介の脱走時に最も近い時期の古地図を発見したので、つい購入してしまいました。
縮尺・色づけなどは、切絵図に載っているものに比べかなり雑ですし、明治初期の地図ならば明治6年版のほうが見やすいですが、この明治2年版官製地図には、明治維新の裏事情を垣間見ることができてなかなか楽しいです。気づいた点を幾つか列挙しておきます。
* 圭介の脱走賂。昌平橋を渡った先は、当時は入り組んだ屋敷町で、現在の昌平橋通りのように直進できる道はなかった。よって、橋を渡ってすぐ、外堀沿いに右折(筋違橋方面)し、現在の中央通り、または昭和通りを左折(北進)し、上野方面に向ったと思われる。
* 中央通りはいわゆる広小路。ここを進んだのであれば、正面に上野の御山を臨みつつ、三枚橋を渡った先で浅草方面へ右折する。現在の上野駅前を過ぎ、浅草通りへ入る。
* 昭和通りを進んだとしても、ちょうど上野駅前に出るので、そこから同様に浅草通りに入る。ただし当時の道は、今の田原町付近で鉤状に折れ、伝法院前を抜け、雷門を左手に見ながら東橋(吾妻橋)を渡る。
* ぱっと見てすぐ気づくのは、切絵図のように屋敷に持ち主の名が記されておらず、「ヤシキ」とのみ書かれているのが目立つこと。町名をあげていくと、神田・駿河台・飯田橋あたり、小石川・本郷あたり、本所・深川、四ッ谷付近、となり、いずれも旗本屋敷や組屋敷が立ち並んでいたエリア。幕府が倒れ、徳川家が駿府へ越して、旗本たちはそれに従って移住するか、離散した。幾つか持ち主名が書き入れられている屋敷が大小を問わずあるのは、居残り組か、それとも明治政府へ仕官した者たちか、はたまた官吏が接収して住んでいるのか?
* 西の丸下の屯所は、「兵フ省附属御親兵屯所」に、大手前屯所は、「兵部省糾問庁」になっている。しかし小川町の屯所については、旧来どおり土屋屋敷の名が。…小川町屯所は接収しなかったのかしら。
* 西の丸下、いわゆる「大名小路」と呼ばれた区域(現在の皇居前広場)は、幕府の要職についているか、将軍家と縁の深い大名など、いわば特権階級の上屋敷町で、慶応元年の切絵図には御三卿をはじめ、松平肥後守や、酒井雅楽・阿部豊後といった老中の名が記されている。が、明治2年の地図ではこれがすっかり接収され、明治政府の役所と官軍側の各藩の屋敷に変貌。「長州」、「薩州」、「土州」、「因州」、「阿州」、「神祇官」、「待詔局」、「民部省」、「大蔵省」、「刑部省」、「兵部省」、そして「三条右大臣殿」などの字が見える。肥前がないよ!?
…と肥前スキーとしては一瞬愕然としたのだが、堀を隔てた、現在の日比谷公園のところに元々の肥前屋敷があるので、わざわざ引っ越す手間を省いたとかそんなところか。(…ハブにされたわけじゃないと思いたい…)
* ↑のように家主が引っ越したり、或いは「賊軍」に与した藩の屋敷には、「元」の字が被せられ、「元長州」とか「元松平肥後」のように示されている。…しかし、薩摩屋敷だけは、旧邸も「サツ州」と書かれている…。ということはあれか、薩摩は前の屋敷をキープしたまま新しい縄張りを押さえたんですか…!?(笑)
* その薩摩屋敷の隣は板倉周防邸だったが、明治2年には清水屋敷になっている。
* 縮尺に多少の歪みはあるが、区画割りは幕末期の地図とまったく変わらない。江戸を焼かないために尽力した人々の苦労が報われた証拠。
* 地図左下の凡例部分は、神社・仏閣・道路・川堀池・山林等の説明はそのままだが、最初の三つの凡例が墨で黒く塗りつぶしてあることから、この地図は幕末期の地図を随時訂正して作ったものだとわかる。塗りつぶしてあるのは、おそらくは幕府関連の施設名などではないだろうか。
* 江戸湾沖に、ちゃんと七つの台場が描かれている。上に草が生えてるけど(笑)、でも嬉しい。
(20060114)
■□■函館の気候について
函館市の位置: 北緯41度46分
(ほぼ同緯度の都市は、イスタンブール、ローマ、バルセロナ、シカゴなど)
平均気温(気象庁観測記録)
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11月
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12月
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1月
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2月
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3月
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4月
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5月
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6月
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1971〜2000年平均 |
5.3
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-0.1
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-2.9
|
-2.5
|
0.9
|
6.8
|
11.6
|
15.4
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| |
1961年(平均) |
5.9
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0.1
|
-5.5
|
-3.1
|
0.5
|
7.5
|
11.8
|
16.0
|
| |
1961年(最高) |
15.1
|
12.1
|
3.7
|
4.1
|
10.4
|
21.3
|
21.7
|
24.5
|
| |
1961年(最低) |
-5.4
|
-9.4
|
-17.3
|
-15.0
|
-8.7
|
-2.2
|
1.3
|
6.8
|
※1961年は気象庁データベースに見る函館管区の最古の観測記録
※上記期間は旧暦の明治1年10月20日〜同2年5月18日にほぼ相当
最深積雪 47cm(H13年2月)
日の出・日没時間
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12月
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06:45
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16:07
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旧暦10月半〜11月半に相当
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1月
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07:04
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16:16
|
旧暦11月半〜12月半に相当
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2月
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06:50
|
16:51
|
旧暦12月半〜1月半に相当
|
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3月
|
06:12
|
17:27
|
旧暦1月半〜2月半に相当
|
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4月
|
05:20
|
18:02
|
旧暦2月半〜3月半に相当
|
|
5月
|
04:34
|
18:35
|
旧暦3月半〜4月半に相当
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6月
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04:05
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19:05
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旧暦4月半〜5月半に相当
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●『最後の箱館奉行の日記』(田口英爾、新潮選書)に記された箱館の冬の気候
※「最後の箱館奉行」こと杉浦誠(梅潭)は、慶応2年1月18日に箱館奉行に任命され、同年4月23日〜慶応4年閏4月26日まで、2年間を五稜郭で過ごした。赴任にあたって寒暖計を持参しており、日記には天候や気温が細かく記されている、らしい。『杉浦梅潭 箱館奉行日記』(杉浦梅潭日記刊行会、平成3年刊)を見ればもっと詳しく載っている、はず。
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慶応2年
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10月20日
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「雪尺余ニ及フ」 |
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23日
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「昨夜ヨリ雪 外二十六度(摂氏-3℃)」 |
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11月朔日
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「昨夜ヨリ寒気大イニユルム 薄暮軽雷内五十弐度(摂氏11℃)」 |
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慶応3年
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2日
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「雪」 |
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26日
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「雪」 |
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12月 8日
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「近来にない快晴」 |
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28日
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「風雪 朝十四度(摂氏-10℃) 甚寒」 |
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2月 4日
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「雪」 |
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4月29日
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「晴」 |
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10月朔日
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「今朝 微雪初来」 |
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慶応4年
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1月25日
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「晴 昼三十八度(摂氏3℃)」 |
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28日
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「晴 昼四十八度(摂氏9℃)」 |
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2月 6日
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「雨」 |
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8日
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「晴」 |
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9日
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「晴」 |
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10日
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「雨」 |
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11日
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|
「風雨」 |
|
|
12日
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「晴」 |
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3月 3日
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「小雪」 |
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4月16日
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「晴」 |
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18日
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「晴 庭中桜花満開」 |
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閏4月11日
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「曇折々雨」 |
(20060114)
■□■伝習隊メモ: 4 幕府歩兵の構成 その壱
勝海舟が纏めた『陸軍歴史』(勝海舟全集15〜17巻)は、幕府陸軍を知るにはこれ以上ないほどの詳細な情報源なのですが、如何せん当時の史料をずらずらと並べただけの代物(ところどころに勝のメモっぽい内容もある)なので、相当根気よくないと読む気が起こりません。
なので、洩れもあるかと思いますが、ひとまずの探索結果をば。
(図表にできたらよかったんですが、そうすると画面が重くなるので、ベタ書きにしました。読みにくいのはご勘弁のほど。)
●文久の改革で設置された陸軍の指揮系統
陸軍総裁(元帥/老中)――陸軍副総裁(大将/若年寄)――陸軍奉行(中将/御留守居以上)――騎・歩兵各奉行(少将/勘定奉行以上)――騎・歩兵頭(大佐/西丸留守居以上)――騎・歩・砲兵頭並(中佐/御留守居番以上)――騎・歩兵総目付(少佐/御使番以上)――騎・歩・砲兵指図役頭取(大尉/新御番組頭以上)――騎・歩・砲兵指図役(中尉/両御番以上)――騎・歩・砲兵指図役並(少尉/新御番以上)――騎・歩兵目付下役および両旗役(特務曹長/御天守番以上)――騎・歩・砲兵指図役下役(曹長/表火の番以上)――騎・歩・砲兵指図役下役並(軍曹/学問所勤番以上)
※()内は、西洋における階級/任命される者の地位。
※上記のうち、騎兵と歩兵は、それぞれの「頭」より下の人事は各奉行の差配。砲兵には奉行が置かれず、士官・下士官は陸軍奉行の直接支配とされた。「目付下役」より下は下士官扱い。
※定員は、総裁、副総裁、陸軍奉行までが各1人ずつ。それ以降は、騎・歩・砲兵でそれぞれ異なっている。
※第一期の指揮官(指図役以上)は、講武所奉行・頭取・師範役並・教授方など、主として講部所関係者から選任されたが、多少でも西洋軍事技術を知る者を選んだとみえ、総計48名のうち30名が砲術関係者だった。
歩兵について、各階級の定員と指揮権限をみると、歩兵奉行は3名で、各々1ブリガーデ(brigade、旅団)=3〜4レジメント(regiment、連隊)を差配しました。この中には歩兵16組、撒兵組4組、親衛狙撃組4組が含まれています。
歩兵は各レジメントにつき1人ずつ頭と総目付が置かれました。頭並は1バタイロン(battalion、大隊)の指揮を執りますが、「一組指揮役=バタイロン将」とあることから、定員は16人。指図役頭取は中隊の指揮をし、各大隊につき5名・計80人。小隊を預かる指図役は各6名・計96人。指図役頭取と指図役の両階級より、歩兵目付役・同役並を任命する。指図役並も5名・計80人で、「第一級半隊」の指揮をする、とあるけれども、この第一級半隊というのが半小隊を意味するのかどうかはちょっと不明。将士合計312人、下士官148人、これに歩兵が加わる、とされています。
後日付の史料に、「歩兵頭並一人につき一バタイロンの兵卒、並びに歩兵組指図役六人、同並五人ずつ附属仰せ付けられ、陣営落成次第、一ヶ所にて二バタイロンずつ受取らせ候事。」とあるので、この人数が決定した時点ではまだ歩兵屯所はできていなかったことが判ります。(江戸府内の4つの歩兵屯所は、文久元年2〜7月に相次いで落成した)
ただし、上記はすべて、文久の改革で「新設された陸軍」の構成。この他に、旧来からの軍事組織があり、実際には時代遅れで形骸化した組織とはいえ、「常備軍」の形式をとり、伝統・格式などを伴った「栄誉あるお役目」として根強く残っていました。「幕府の三兵士官学校設立をめぐる一考察」(宮崎ふみ子)によると、具体的には、将軍の身辺警護・江戸大坂二条駿府の4城の警衛にあたる役目で、その中心を為した「番方」(五番方)だけでも、番頭・組頭120人、番士1700人、与力220人、同心440人を擁していた。これに加え、武役といって、先手組・徒組・御持筒組などの組織があったといいます。
これら旧軍事組織は、太平の世の中と苦しい生活の中、戦闘の手勢である家臣の数を減らしたり、武具を手放したりしてしまっていて、幕末にはすでに無用の長物視されていたけれども、栄誉と既得権が結びついて旗本の主たる地位と収入の源となっていたため、新陸軍の編成とともに全廃してしまうことは不可能だった、と宮崎氏。
幕府がこの旧軍事組織に漸くメスを入れられたのは4年後の慶応2年の軍制改革で、この年の夏から冬にかけ、3回にわたって大規模な人員整理を行いました。改革が容易な部署からスタートし、幾つかの部局を廃止したほか、廃止しなかった部局も定員を半減。各部署の長は非役とされ、残りは新設の奥詰銃隊・銃隊・遊撃隊に振り分けられ、旧組織が担当していた城や門の警衛は、新設の諸部隊が肩代わりすることとなりました。
ただし、これらの新設部隊は、老中格の陸軍総裁の支配下には入るものの、陸軍奉行の差配は受けず、文久2年に創設された陸軍とは全く別系統の組織だったようです。
●慶応元年11月の「歩兵屯所規則書」にみる歩兵隊の構成
ここでいう「歩兵」は、文久の改革で設置された陸軍の歩兵なので、旗本・御家人の兵賦として徴発された足軽相当の武士と平民で構成されたもの。禄は幕府ではなく、直接の雇い主である旗本・御家人から受けていました。
兵賦屯所入りの年齢は18歳〜45歳で、出身地(徴発地)の区別なく、年季(今でいう兵役)は5年。屯所一ヶ所の兵員を「1列獅綿多(れじめんと)」とし、22小隊・鼓手2隊で構成するものとしていました。人員構成は以下のとおり。
歩兵頭(1人)――歩兵頭並(2人)――歩兵改役(2人、歩兵指図役頭取が兼任した)――歩兵指図役頭取(10人)――歩兵指図役(10人)――歩兵指図役並(12人)――歩兵改役下役(2人、指図役下役が兼任)――歩兵旗役(2人、指図役下役が兼任)――歩兵指図役下役(10人)――歩兵太鼓取締役(2人)――歩兵指図役下役並(60人)――医者、調役など
※歩兵奉行は屯所2ヶ所を総括し、全般的な管理と部下からの報告を全て裁断・指図する。
※歩兵頭は「一ヶ所大小事務」を司り、部下の管理と指示出しを行う。
※歩兵頭並は歩兵頭の勤務に準じ、規律を監督をする。
※歩兵改役は、屯所内の人員・器械その他の経済賄い方を取締り、歩兵の規律を監視するとともに、これらのことについて歩兵頭・同並へ報告する。
※歩兵指図役頭取は、改役に準じた任務の他、所属中隊の管理・教育を担当する。
※歩兵指図役・同並は、頭取に次いだ任務とし、とくに所属中隊の人員・器械の取調べなどをよく理解し、下役と歩兵組の規律を糺すとともに、上下の伝達がよく通じるよう配慮する。
※屯所中には日夜を問わず一中隊を当番とし、非常事態に備える。当番中隊一組は、指図役頭取1人・指図役1人・指図役並1人・指図役下役1人・指図役下役並4人と歩兵一中隊で構成する。
※その他、同構成のもう一中隊を日夜常備し、非常時に速やかに出張(=出動)できるようにしておく。
この他、屯所中の詰め所は6区分に分け、それぞれ奉行頭、頭取改役、指図役、指図役下役、調役、立会御勘定方の詰め所とし、用事があるときに他の部署へ行くのは構わないが、みだりに自分の持ち場を離れてはならない、とか、4ヶ所の屯所の「番号」は、1から順に小川町、西の丸下、大手前、三番町、の順番とする、とか、新兵を受け付けるときは、常番頭取・指図役・改役下役・当番下役・医師の5人が必ず立会い、名簿と引き合わせつつ「雑事記載中の条目」によって吟味する、とか、けっこう面白い規則が並んでます。
泊まり番以外の者は自宅通勤ができたようで、朝9時半出勤、午後3時半退勤、と決められていた模様。そのうち10時〜15時が「稽古」となっているので、これは訓練をしていたのでしょう。門は、「御名代・御三家・御両卿」以外には、どんな重役であっても開けてはならないとし、表門はもとより裏門、通用門すべてにおいて、昼夜出入りを厳しく管理するとしています。鍵は、屯所内外の見回り(朝夕)を担当する当番頭取に預けられていたようです。
毎月2回、人員・器械類の「大改め」を行い、各小隊毎に点呼をすべし、なんて条項もありました。
(20051215)