本日の鳥飯。
■□■伝習隊メモ: 6 幕府歩兵の構成 その弐
『陸軍歴史』(勝海舟全集17巻)には、シャノアン、ブリュネ、メッスローの和解(わげ、建白のこと)が幾つか掲載されています。これはフランス語で書かれたものを訳しているので、文久3年の改革来、蘭語・英語の綴りと発音で記されていた組織名も皆、フランス語になっています。
これらの建白は、幕府の陸軍を将来的にどのようなものにするべきか、という視点で書かれているので、実際に伝習隊にどの程度まで記載されている事項が導入されていたのかは判りません。が、三兵それぞれについて非常に細かく指摘されていること、またこれがフランス士官たちにとっての「常識」であったろうことから、一年弱にわたる伝習において、幾らかは反映されていたと考えていいのではないでしょうか。(実際、伝習所移転や士官学校設立などの建白は、幕府が即応しています)
建白の内容は、陸軍の編成の仕方から歩兵、砲兵、騎兵などの訓練に関する助言、事務方の作業の常識、軍事裁判や軍病院の設立まで、多岐にわたります。ここではまず、陸軍編成に関する点から纏めてみます。()内は『陸軍歴史』掲載の仏語と和訳の註、仏語の直後の/以下の単語と〔〕内は、私が付け足した現代英語の註です。
●『シャノアン建白、武官給金の説和解』にみる伝習隊の構成
定則: 行軍・戦闘の基本単位は「バタイロン(batallion/battalion、大隊)」。下部組織として、「コンパニー(compagnie/company、小隊)」を置く。
歩兵大隊
| ○一大隊の「エターマジョル(etat major/headquaters、司令部)」の構成 |
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* 「大隊頭」×1人、「アジウダンマジョル(adjudant major、副官)」×1人、「放射教授士官」×1人
* 狙撃部隊など別働隊として動くときには、「トレソリエ(tresorier/accounting officer、主計)士官」×1人が加わる。
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| ○大隊の編成 |
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* 「現務小隊」×8 隊 + 「予備小隊」×1 隊で構成
* 予備小隊は、主に新兵の教練を担当する。新兵は、習熟度によって大隊に編入するかしないかを決定する。 |
| ○小隊の構成 |
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* 士官 |
・「カピテーン(capitaine/captain、陸軍大尉)」×1人
・「リウトナン(lieutenant、陸軍中尉)」×1人
・「スウリウトナン(sous lieutenant/second lieutenant、陸軍少尉)×1人 |
| * 下士官 |
・「セルジャンマジョル(sergent major)〔上級曹長〕」×1人
・「セルジャンフリーエ(sergent fourrier)〔補給・需品係軍曹〕」×1人
・「セルジャン(sergent、軍曹)」×5人
・「カポラル(caporal/corporal、伍長)」×8人
・「喇叭手」×4人 |
| * 兵卒 |
・戦時: 130〜140人
・平時: 40〜50人 |
| * その他、大隊に属する「諸工作人(仕立物師、沓師等)を同行する。 |
連隊: 陸軍大隊数が増えた場合は、数大隊を合併して「レジマン隊(regiment、連隊)」を編成する。
| ○レジマン隊の構成・人員 |
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* 「現務大隊」×2〜3隊 + 「予備大隊」×1隊で構成。
* 指揮官=「コロネル(colonel、陸軍大佐)」×1人、「リウトナンコロネル(lieutenant colonel、中佐)」×1人 |
ちなみに、↑は歩兵隊の構成で、砲兵隊、騎兵隊になるとまた色々と変わるようです。
圭介はもともと砲兵調練を受けているはずですし、脱走軍の戦闘にも大砲を扱う場面がたびたび出てくるので、参考までに纏めてみます。
●『仏蘭西軍務使臣建白和解 日本に於て仕組むべき大砲隊の支配向』に見る砲兵隊の構成
『陸軍創設史』(篠原宏)によれば、これはブリュネの手による建白だそうです。(『陸軍歴史』からは判断はできない。ただし、ブリュネが砲兵士官であることから恐らく指摘は正しいと思われる)
砲兵隊の大隊は、「バットリ(batterie)」が基本単位。『陸軍歴史』では「大砲一隊」と訳されていますが、現代フランス語または英語(battery)では「砲兵中隊」を指します。
建白書によると、日本の軍隊に必要となる砲兵隊は「山砲隊」と「野戦騎砲隊」の2種類で、「山砲隊はすべて歩行砲兵卒にして、取り別け山砲の勤務に適当せる者を以て編成す。」「臨時に用ゆべし攻城砲、及び守岸砲の調練を学ぶべし」とありました。
ちなみに「山砲」とは、馬の背に乗せて運べる小型の大砲のことのようです。「攻城砲」はその名の通り、台場や城郭を破砕するための大型砲で、馬6頭で運ぶもの。他に「軽砲」といって、馬4頭で運ぶ大砲があったもよう。ちなみにのちなみに、全部「旋条砲だそうです。
野戦砲騎隊については、フランス軍がメキシコ戦争で使用して成功したものだとして、「江戸、大坂等の如き大都会に於ては、甚だ要用なり」。砲兵の半数が騎乗で大砲や荷駄を引き、半数は荷駄の上に座って移動する機動性を重視した部隊で、当時の日本は充分な道幅のある街路と街道が整っていたので、効力を発揮するだろう、と分析されています。
※1バットリの指揮官は「第一等の甲比丹(かぴたん)」〔大尉〕。その下に「第二等甲比丹」〔中尉?〕が附属して、必要な時は大尉に代わって指揮する。
※1バットリにつき大砲6門。2門ずつ、3個分隊に編成する。
※分隊指揮は「リウトナン」〔中尉〕、または「スウリウトナン」〔少尉〕が指揮する。
※大砲1門につき、必要な下士官・兵卒は以下のとおり。
* 「マレシャル・デ・ロシ(marechal de logis、軍曹)」×1人、大砲頭取
* 「ブリガディエ(brigadier、伍長)」×1人、火薬箱頭取
* 「火薬方」×1人、火薬製造担当
* 山砲隊砲兵卒×20人 (第一等×10人、第二等×10人)
* 野戦騎砲隊兵卒×30人 (第一等×15人、第二等×15人)
※その他、大隊所属下士官として、下士官の取り纏め+馬具管理をする上級曹長×1人、書記官を務める曹長×1人、経理担当の軍曹×1人、その補佐にあたる伍長×1人、装備担当の軍曹(ガルドパルク、garde
parc)×1人、喇叭手×4人
※大砲製造方として、各バットリに「砲造師」×1人、「木工」×3人、「鉄工」×3人が附属する。
この建白書は最後に、日本政府は早急に野戦砲隊を組織する必要があると指摘し、「日本人は大砲を馬で運搬することを知らないので、バットリを構成していないが、それだと大砲は(戦闘時に)ただ邪魔な荷物にしかならない」との註釈が付いているので、少なくとも慶応3年当時、砲兵隊についてはちゃんと組織だった形式にはなってなかったみたいですね。
この他、篠原氏がメッスローの建白とする一書にも、歩兵隊の構成に関する記述が出てくるので、次はそれを纏めます。
(20060615)
■□■圭介江戸脱走ルート: 見附と木戸の攻略方法
前回(↓)で決着が付いたっぽい圭介の脱走時の想定ルート。切絵図を見てたら更なる疑問点が湧いてきてしまったので整理をば…。(←いい加減にせい;;)
江戸の町には、防犯設備として、三十六見附に加え、町のあちこちに番屋(辻番・自身番)と木戸が置かれていました。
○辻番: 武家地に置かれた。昼2〜4人、夜4〜6人の昼夜交代制で、夜中でも戸を閉めずに往来を監視し、受け持ち地域を巡回した。しかし江戸中期より町人の請負仕事となるにつれ、だんだんと隠居所のようになってしまった番屋も少なくなかった。
○自身番: 各町内に一つずつあった。当初地主自ら交代で詰めたことから自身番という。昼間は書役1人が町内の雑務を処理。夜は3〜5人が詰め、不審者などを取り締まった。時代が下るにつれ、町内の人々の溜まり場と化し、障子を締め切って碁将棋や酒に興じる場合もあった。
○木戸: 町境につくられ、各木戸に木戸番が住み込んで、木戸の開閉を管理した。木戸は毎日四つ(亥の刻)頃に閉められ(「木戸をさす」という)、以降の出入りは明け六つまで潜り戸のみとなる。潜り戸を通るには、木戸番に遅くなった理由を説明しなければならなかった(医者と産婆は何も言わずとも通してもらえた)。潜り戸を抜ける時には、木戸番が拍子木を打ち、次の木戸へ通行を知らせた。(中江克己、『お江戸の意外な生活事情』より)
ちなみに、見附の門が閉まるのは暮れ六つ(日の入り時刻)。閉門後の出入りには、住所氏名など身元の申告が必須で、それも親の急病とか親戚に不幸があった場合でなければ許されなかったようです。外堀の方はいくらか甘かったけれども、内堀はとにかく厳重で、下手をすると通り抜ける途中で閉じ込められてしまう人が出てしまうため、暮れ六つはゆっくり鳴らすようにしていたとか。(岸井良衛編、『岡本綺堂
江戸に就ての話』)
さて、圭介の脱走において問題となるのは、恐らく番屋よりも木戸でしょう。混乱期で、歩兵の脱走が相次ぐ不穏な情勢ともなれば、番太郎だって命が惜しい、警備に精を出すより引篭ってやりすごすほうを選んでも不思議はありません。が、木戸を閉めるというのは日常的な習慣ですから、当然これは閉めていたと考えられます。
慶應4年4月11日は、新暦に直すと1869年5月22日、日の入り時刻はだいたい午後6時45分頃だったはずです。日の出時刻が4時半頃。ここから計算すると、四つ時(亥の刻)はちょうど午後10時頃になります。圭介が家を出たのが、日付を跨いで2時。ばっちり、門も木戸も閉まってます。これが大勢で脱走したのなら、「開けろ」と脅せば一発でしょうが、圭介たちはたった3人の道行でした。(どうやら圭介には、脱走に際して事を荒立てる積りがなかったのではないかと思われるのですけれども、それについてはまた別記します)
見比べているのが同時代の切絵図ではないので確証はないとはいえ、嘉永4年および文久元年の尾張屋版江戸切絵図で昌平橋〜吾妻橋までのエリアをシミュレートすると、木戸も番屋も一切通らないルートは存在しない、という結果が出ます。たとえば昌平橋→浅草茅町(浅草橋)までのルートを見ると、迂回路がなく正面からクリアしなければならない番屋は神田川沿いの一箇所だけですが、しかし浅草見附から蔵前を抜けて雷門までの道程には、計8つの「木戸らしき記号」がある。
この「木戸らしき記号」、同じ尾張屋版でも、記入してある切絵図としていない絵図とがあり、地図記号としての確認もできてはいないのですけれども、文久元年の尾張屋版切絵図の雷門のあたりを見ると、門前の左右(浅草広小路)に同じ記号があり、『江戸名所図会』(天保年間)には、その場所に木戸と番小屋がはっきり描かれているのです(稲垣史生、『江戸町めぐり』)。また、同じ地図記号が雷門前をまっすぐ南に下った浅草駒形町にもあるのですが、これは国立歴史民族博物館の収蔵品紹介「歴史の証人・絵巻橋姫」掲載の絵に、並木町と駒形町の間の木戸として描かれています。
そこで、この「木戸らしき記号」を木戸と仮定すると、これらを通らずに昌平橋〜吾妻橋まで抜けるためには、浅草茅町に出るというルートはありえない、ということになってしまいます。
浅草と神田川の間の武家地の小路をすり抜けていけば木戸はありませんが、少なく見積もっても2つの番屋をやりすごさなくてはなりません。ただ、この「2つ番屋をやりすごす」ルートの一つに、「猿屋町」を通るものがあります。もし、「浅草葺屋町」が「浅草猿屋町」だとすれば、このルートである可能性が高くなります。(活字だとありえない間違いですが、くずし字だとどうなるか…。現在、くずし字辞典を取寄せ注文してますので、届いたら確認してみます。)
あと、↓の記事を書いた後に思ったのですが、第二大隊の脱走はほぼ確実に計画的なものなので、圭介が下男にあらかじめ木戸のない道や番屋の場所を確認させていた可能性は少なくありません。とすると、主要道を使わずに裏道を選んで抜けていくことはできたかも。(木戸にも、新道とか小路といって抜け道が存在したところもあったようですし)
以上、自ら断言したことへの異論を呈してみました。
くずし字辞典で「猿」→「葺」の誤読がどうにも発生しようもないものだという判定が出た暁には、「圭介は何らかの上手な言い訳を駆使して8つの木戸を突破していった(=茅町ルート)」、ということで、ひとつ宜しく。(笑。想像するとそれも凄くオイシイ光景だ…)
※昌平橋に関する雑知識。
圭介が脱走にあたって昌平橋を使ったのは、家から近かったという偶然の理由だと思っていたけれども、もしかしたらそうではないかもしれない、と思う今日この頃。なぜなら昌平橋には、門がなかったか、あっても簡易なものだったと考えられるからです。
文久3年尾張屋版小川町絵図を見ると、堀の内側(小川町側)に番屋があるものの、橋には門も木戸もありません。嘉永3年辻吾堂版日本橋北神田絵図も、隣の筋違橋には筋違御門が描かれているが、昌平橋には番屋のみです。といっても、嘉永4年尾張屋版東都下谷絵図の昌平橋には、番屋の記号がない代わりに木戸の印が描かれているから、通行人のチェック程度はあったかもしれないけど。
いずれにしろ、見附よりも出入りはしやすかったはずで、しかも官軍がノーマークの外堀の橋。圭介は他のどこでもなく、敢えて昌平橋を選んで渡ったのかもしれません。ついでに、集団脱走ではなく3人という少人数で移動したのも、木戸を通るときに言い訳しやすいからだったりして、とか。
妄想してると楽しくて仕方がありません…。
(20060211)
■□■圭介江戸脱走ルート: 「浅草葺屋町」探訪
圭介の脱走時の想定ルートはこれまでにも幾度か考えてますが、どうしても判らなかったのが、「浅草葺屋町」。1998年発行の新人物往来社刊『南柯紀行』冒頭には、「昌平橋を渡り浅草葺屋町に出て東橋を過ぎ」、とあります。「葺」の字は、“かやぶき屋根”の「ふき」ですから、「ふきやまち」、または「ふきやちょう」と読むはずです。
ところが、昌平橋(現在のJRお茶の水駅から東に一つめの橋、神田川(江戸城外堀)にかかる)を渡って、東橋(吾妻橋、地下鉄銀座線浅草駅の傍、隅田川(大川)にかかる)に至る道筋に、「葺屋町」という地名は見つかりませんでした。「ふきや」という音になる字を幾つか当てて検索してもみましたが、やはりノーヒット。
江戸で有名な「葺屋町」は、バーチャル南柯紀行でも書いたように、日本橋人形町3丁目、当時「芝居町」と呼ばれた地域ですけれども、「昌平橋を渡った」のであれば、日本橋方面に出るためにはもういちど神田川を渡って南に戻らなければならず、理屈に合わない。それに、日本橋の地名に「浅草」がつくことはありえないので、とすると次に考えられるのは、そもそも『南柯紀行』掲載の「葺屋町」という地名が、圭介の勘違い、または誤植であるという可能性です。
『南柯紀行』には幾つかの地名の間違いがあり、これが誤植であるのか圭介の書き間違いであるのかは、直筆を見ていないので判りませんが、だいたい発音か字形のどちらかが似ているケースが多い。そこで、「葺屋」に間違われそうな地名を、探してみました。
先に書いたように、「吹屋町」はヒットしませんでした。ということは、「葺」の字がそもそも間違っているという確率が高い。まず調べてみたのは、「浅草○屋町」という地名です。
「浅草下谷散歩(旧町名探訪)」という素晴らしいサイト様がありまして、昭和9年以前の浅草界隈の旧地名をリストにしてくださっています。これをしらみ潰しにチェックしてみました。その結果を羅列しますと、雷門のところに「浅草茶屋町」というのがあったらしい。それから、ちょっと浅草橋寄りのところに、「浅草猿屋町」という地名があって、これは寛永7年(1630)に町屋を形成したといいます。ついでに、浅草通りには「菊屋橋」という橋がありましたが、これは町名にはなっていなかったもよう。しかし、これだけでは決め手に欠けます。
さらにウェブの海を彷徨ううちに、芝居町として名高かった「葺屋町(ふきやまち)」が、ウェブ上では「葺町」だったり、「葦屋(よしや)町」「葦町」などとも紹介されていることに気付きました。芝居町のお隣が元吉原で、「よしわら」の地名の元が、かつてこの地が葦の生い茂る湿地だったという説がありますが、そのへんで混同してしまったのではないかと思われます。よし、と意気込んで「葺町」と「葦屋町」で調べてみました。…が、これはどうやらアウト。
他に何か間違う字はないかな〜、と国語辞典を開いて、草冠に下が耳と間違いそうな字を探しているうちに、ふと、ある圭介ファンの方が「浅草葺屋町」を書くのに「萱」の字を使ってらしたことを思い出しました。
で、検索をかけてみましたところ。
「浅草萱屋町」ではヒットしなかったものの、「浅草萱町」で、もしや、と思うものにぶつかりました!
神戸大学の近世演劇展の出品目録に、「浅草萱町二丁目須原屋伊八」から発刊された芝居の本が載っていました。それから、雛祭りの説明のページで、江戸時代中期に「雛人形を売る仲店が江戸浅草萱町」などに開かれた、という記述がありました。
ここで上記「浅草下谷散歩」のサイトに戻り、旧地名に「浅草萱町」があるかどうか調べたところ、「萱町」はありませんでしたが、「茅町」ならありました。
「浅草茅町」は、現在の地名では浅草橋と柳橋の界隈にあたります。浅草橋には当時、三十六見附(江戸城防衛のための関門)の一つ・浅草御門があり、日本橋から奥州方面や浅草観音、新吉原へ行くにはここを通ったそうです。浅草茅町一・二丁目近辺は、はやくも元和3年(1617)に町を形成し、江戸期を通して商店街として栄えていたといいます。
現代の感覚で「浅草」というと、どうしても雷門周辺の狭い地域を想像しがちですが、江戸時代にはもっとずっと広いエリアが「浅草」として認知されていたようで、旧地名には他にも「浅草○○町」がたくさんあります。(→
「広域地名 浅草について」(「浅草下谷散歩」)参照)
実は、圭介の脱走ルートとして、私がずっと「昌平橋→上野→浅草」コースを提唱していたのも、「浅草」という地名を狭く捉えていたからでした。
先日購入した「明治2年初秋新刊・官製(吉田屋文三郎)東亰絵図」には、浅草橋から御蔵前を抜けて雷門まで、上野広小路に負けず劣らずの広い通りがはっきりと記されていて、これなら迷うことなく目的地を目指せそうです。
(現代日本人は世界に比しても特に地図を活用する国民ですが、江戸時代の人がそこまできちんと地図(切絵図)を見て歩いていたか、というと、怪しいものだと思っています。たとえば現代イギリス人は、ちゃんと地図を持っているにもかかわらず、滅多にそれを見ないし、参考にしません。「混んでいるから迂回ルート」という思考は彼らにはなく、自分のよく知っている道しか通らない。これは私の勘ですが、江戸期の日本人も、これに似たシンプルな感覚だったのではないかと想像しています。ましてや圭介が脱走したのは夜です。真っ暗闇の中、幾ら人目を忍ぶためとはいえ、入り組んだ屋敷町を選んで歩いたとは考え難い。よって、上野にしろ、浅草橋にしろ、「迷わない確実なルート」を選んだだろうと考えています。)
次に、「茅町」を「萱屋町」と書く可能性があるか、という点を検証してみましょう。
「茅」が「萱」と書かれている例は多く、「浅草萱町」のほか、岡本綺堂の著書を刊行していた出版社があった「下谷区池之端萱町」は、明治44年以前の地名で「下谷茅町」と呼ばれていた、という記録もあります。たびたび言うように、昭和の国語審議会が漢字の用法に基準を設けるまで、日本語は意味よりも音を重視して漢字を用いてきました。(明治になると、意味を重視した当て字も相当に増えますが。)
よって、「茅」→「萱」、は充分にアリとみてよいでしょう。
「萱屋」については、「萱」も「茅」も一字で「かや」と読み、「萱屋」「茅屋」の場合は「かやや」と読んで、かやぶきのみすぼらしい家を意味するのが通例なのですけれども、名古屋に萱屋町と書いて「かやまち」と読ませる地名があるようなのですね。町内にかやぶきの家が多くあったことから寛永期にこの地名になったそうで。なので、「浅草萱屋町」=「浅草茅町」、と解釈してもよいのではないかな、というのが私の感触。
と、いうわけで、圭介脱走(想定)ルート、訂正します。圭介、木村隆吉さん、虎吉の3人は、行李ひとつ担いで駿河台の家を出、昌平橋を渡ってすぐ右折、神田川(外堀)沿いに1.5キロほど東進して浅草御門前まで出、そこで北に転進した、という可能性が高い、です。
ちなみに、浅草御門には警備の兵が常時詰めており、各所の警備は11日中に江戸城とともに官軍の管理下に置かれていたはずなのですが、これについては、勝海舟の『解難録』に、4月9日に大久保一翁とともに池上本門寺の官軍先鋒宿所を訪ねて行った「納城談判」において、官軍側に、「城や武器を引き渡すのはともかく、管理のノウハウがなければ江戸を治めることは到底無理だから、人員はそのままで、上司だけ入れ替えたほうが、江戸市民も安心するだろう」という提案を行ったという記録がありました。これを裏付ける記録が『復古記』にもあり、それによると、どうも官軍は警備の重点を内堀の御門に絞っていたらしく、浅草をはじめとした外堀の御門に関しては、「銃器は取り上げるが警備はこれまでどおり」とする沙汰があったようです。その後、翌12日に田安門付近で幕府歩兵が不服従を唱えたのをきっかけに、赤坂、筋違、四ッ谷、市ヶ谷、牛込、小石川、水道橋の7ヶ所を官軍に守らせるようにした、と書かれていました。(『復古記』東山道記第十三)
よって、圭介らが通った12日早朝に、御門を通り抜けるわけでもない3人ぽっちの道行きを、浅草御門近辺の衛兵が咎め立てする、という心配はあまりなかったのかもしれません。(自分たちが明日どうなるかも判らないような状態では、浮き足立っちゃって警備も疎かになっていたでしょうしね)
(20060205)