本日の鳥飯。
■□■藤岡屋日記より、歩兵隊に関する話を2つ。
(超!有名な3番町脱走事件は、長いのでひとまず割愛。またそのうちに。)
○大坂より撤退の道中の話。(1月中)
「伊賀越、山中故用心之為ニ鉄砲ニ玉込致候処、険阻ニ而、過而ハジキはね候故、ソリヤ藤堂の伏勢成と前後ヨリ打出し、同士討ニ而大怪我致候由。
いにしへの伊賀越御難御開運 今の御難ハ運の尽きなり
歩兵めがいたぶり取りし報ひ来て 今ぞ其身ニ当る鉄砲 」
ソースは記載されてないのですが。
大坂撤退の伊賀山中。奈良を抜けて笠置越えでしょうか。京都を敵に押さえられている以上、鈴鹿→四日市と抜けて東海道に出るしか、陸路はありません。
ただし、津藩(藤堂家)の寝返りがある。津は、鈴鹿のすぐ南。「藤堂の裏切り」が鳥羽伏見の戦いでの幕軍瓦解に影響している以上、陸路東帰の人々は少なからず、「藤堂の待ち伏せ」を警戒せずにはおれなかったはず。
そこで、鉄砲に弾を込めていつでも発射できるようにして、山道を進んだ。ところが、道が悪く、何かの拍子に誤射した兵が出た。それ奇襲だ!というので皆パニック状態でめくら撃ち。同士討ちで大怪我する兵が出た、という話。
どこの歩兵隊かは知らないけれど、そんな状態で江戸まで漸く帰ってきたら、報奨は出ないわ給金は減らされるわ、隊解散で仕事失う危険は沸いてくるわ、そりゃー暴発したくもなりますわな…。(それにしても落首が切ない。そんなに歩兵を嫌わないでくれよう…泣笑)
で、この記事と出会うのと会い前後して、入潮さんが「脱走時の滝川の年齢=18歳」という衝撃の現実を発掘してくださったので、思わず伊賀山中で大混乱に陥る部下を抑え統率する滝川充太郎(18歳)、とかいう光景を思い浮かべてニヤニヤしてしまいました御免なさい。(伝習第一大隊が陸路で帰ってきたのか、紀州から海路組だったのかは知りません)
○2月22日 町触 (長いので候文の書き下しでいきます)
「近来歩兵ども、市中において乱妨(暴)甚だしく、大いに難渋し候趣、もってのほかの儀に付き、今般右を取り締まらせ、役々附属の兵士に巡邏致させ、乱妨の者は勿論、市店においてガサツにまじき所業に及び候者ども見かけ次第召し捕らえ、夫々厳刑に処し、もし手余りに候わば討ち果たし申すべく候、尤もその旨前もって、兵士どもへ厚く申し諭し置き、心得違いのもの之無きよう致すべく、ついては役々においても、御主意柄きっと相心得、厳重の御取締り相立ち候よう致さるべく候、右の通り陸軍奉行並始へ相達し候間、市中の者どもへその旨相心得候よう致さるべく候事。
右の通り町御奉行所より仰せ渡され候間、町中家持ち、借家店借、裏々まで洩らさぬよう相触れるべく候。」
町奉行所からのお達しです。
歩兵たちが町中で乱暴して困るという苦情があるが、とんでもないことなので、取締りを強化する。警備担当の兵士は、暴れている歩兵はもちろん、店先で粗暴な振る舞いをしている歩兵がいたら、現行犯逮捕すべし。抵抗して手に負えなければ、殺してしまって構わない。ただ、実際にこの方法を導入する前に、歩兵たちにはきちんと説明をして、まずは心得違いを起こさせないようにすること。警備担当も、よくよく事情を把握して、任務遂行に支障のないようにさせよ。以上の内容は、陸軍奉行並以下の軍部にも通達してある。市中にも、裏長屋に至る隅々まで通達するように、という内容。
「手余り→討ち果たし」というあたりで、どれだけ歩兵の暴動が凄まじかったか想像つこうというもの。
どうやら圭介は2月初旬〜20日前後まで、江戸を留守にしていたという未確認情報がありまして…帰ってきたら足下(小川町屯所)からも大量脱走が出てるわ、残った歩兵も素行不良で町方から「いい加減にしねえとたたっ斬るぞ」と通達されるわ、すさみきった隊内の空気にこう、一歩後ずさってそうだ。どんどん逃げ場がなくなってく感じだったのではないかと、邪推。(するのが楽しいですとも、ええ。)
(20070321)
■□■駿河台旗本屋敷始末: 小栗邸と滝川邸
駿河台の大鳥拝領屋敷について調べていて出くわした、小栗上野介邸と滝川播磨守邸に関する記述。N○Kの『またもやめたか亭主殿』再放送を記念して(笑)、ご紹介します。
掲載媒体は、『東京都・都市紀要13 明治初年の武家地処理問題』。土佐の土方久元の伝記、『土方伯』からの引用として、次のように記しています。続き文体で読みにくいですが、そのまま行きます。
「すると丁度駿河台の小栗豊後守の邸が明いて居りますから、あれが宜しかろうと云ふので、八月中旬駿河台の小栗の邸に家来を遣はされた、所が兵隊が這入って居るといふことであり、然して其の兵隊はどちらの兵隊であるかと云ふに、旧幕の残兵どもであると云ふことで、使に行った家来のものが、是は小栗の邸であるが、誰から借りて居るかと詰問した処、彼等は誰から借りたのでもありませぬ、唯明いて居るから這入って居るのであるが、全体貴君方は何の用があって御出になったのであるかと尋ねたので、我々はこれこれの訳で主人が住まうと云はれるので、見に来たのであると申聞けた所、彼等は平身低頭で、どうか我々が無断で住んで居たことは内証にして呉れといって退散したといふことである。
依て伯には早速畳建具も其まま受取って移転された、所が隣家は滝川播磨守の邸で有り、此方の馬場と隣家の馬場とは塀一つ取除けば長くなるので、滝川へ立退を申込んで受取られたと云ふことである。」
小栗の屋敷にこっそり潜り込んでいた旧幕の兵隊。兵隊というからには、歩兵か砲兵か…武士階級の者ではなかったのでしょうか。官軍側の主人が接収するのだと家来に言われて平身低頭、内緒にしておいて欲しいと頼み込んで逃げる。切ないです。
で、小栗家の隣の滝川家が、充太郎の実家だという裏付けがひょんなところで取れました。滝川家接収の詳細は、また後で説明されています。
「然して当時伯の方では馬場が入用なだけで家は要らぬ、何分其頃駿河台は明家ばかりで、盗賊が住って居ると云ふ有様で、今の戸田伯の居る前などは明治三年の夏までは、三尺位もある草が茫々として丸で相馬内裏のやうな有様であり、如何にしても無用心であったので、伯から南部(甕男)に、乃公は馬場さへあればよいから邸は貴様にやるから来て住めと申遣された処、それは有難いというので、直ぐにやって来たが、互に女はなし書生と僕と飯焚ばかりであるので、南部も一ヶ月ばかり辛棒して居ったがトウトウ余り広過ぎて怖くって仕方がないので、福井孫四郎と云ふ幕府の騎兵をした人で今は朝臣になって三四十両取の低い役をして居た人に、貴様にやるから住んだらよからうと申聞けられた所、同人大いに喜んでドウも御邸を拝領仰付けられ有難たうございます。昔ならばとても夢にも見られぬと云ふので大層喜んだと云ふことである。」
"戸田伯"は、大垣藩主の戸田氏共です。宇都宮藩の戸田土佐守は親戚筋。戸田伯爵邸は、圭介の邸のあった区画から南に2つ、駿河台南甲賀町にあったようです。隣は西園寺公望邸。
"相馬内裏"というのは、平将門の王城選定地で、茨城県北相馬郡守谷あたりとか。曲亭馬琴の戯作で滝夜叉姫の本拠とされたことから、当時の人々の間では百鬼夜行の名所として有名な場所だったもよう。…そんな場所に譬えられるとは、どうやら相当ひどい状態だったらしいですな、駿河台。
南部さんという人はウィキでも少ししか情報がなくていまいち不明です。福井孫四郎も、柳営補任では発見できませんでした。でも幕府側の人間だったら、小栗邸(+滝川邸?)に住んでもいいなんて、確かに感動しますよね。何せ小栗家だけでも二千七百石取り、約千坪の豪邸ですよ。しかも洋館付き。
――ただ、やっぱり広すぎたみたいで。続き、どうぞ。
「(中略)兎に角此の福井には女房もあり、一婢一僕で暫らく住って居ったが、これも何分怖くって住めないと云ふことで辞(ことわ)って来た。それからモウ誰も住手がない。伯の方でも馬場さへあれば好いので捨てて置かれた。すると折柄聖駕東行と云ふことになったので、此邸は朝廷へ返上し、綺麗に普請をされ、今の神山群廉(当時参与)に拝借を仰付けられ、其後安岡良太郎が御払下を願って私有としたと云ふことである。(現今は池田謙斎の所有になって居る)・・」
馬場さえあればいい、ってそんなに繰り返さなくても…。立ち退かされた滝川一家の立場は一体。
「・・かやうな訳で小栗の邸は伯が受取られたのであるが、其れからこの邸の隣が、かの京都町奉行をした滝川播磨守の邸である。これも小栗などと同じやうに少し罪の重い方で朝廷から別段の思召を以て謹慎を仰付けられて居たのである。其所で伯には元来馬に乗ることが好きで、此頃から乗馬を唯一の楽しみにして居られたのであるが、邸内の馬場だけでは狭くって面白くない。隣の滝川の馬場との間を取り除いて一緒にすれば大分長くなるのであるから、遂或る日のこと使者をやって滝川は丁度徳川亀之助に付いて駿府へゆくのであるから、委細畏りましたと云ふことで、早速お受けをした処が、二三日経つと滝川では畳建具を大八車に積んで持出すのである。如何にも見捨てて置く訳にゆかぬので、伯から「不埒千万である。今日見届くる所によれば、頻に畳建具を運搬するが、一体如何なる心得であるか、西丸初め皆朝廷のものである。然るにかやうな不埒をするのは怪しからぬ。其趣意を書付けにして出せ」と申遣された。すると大に閉口したと見え、用人が間違へまして何とも済みませぬと云ふので、スッカリ畳建具を附けて綺麗に掃除をして渡したので、受取られたと云ふことである。」
……もう本当に切なくて堪らない。不埒千万だの如何なる心得だの。
畳建具、つまり畳と障子や襖などですが、当時は引っ越す際に運び出してたんでしょうかね。明治の学生下宿は通常、畳建具は付いてなかったらしいですし。それとも、現代風に「家具一切」と理解していいのかな。ちょっと解釈に悩みます。
いずれにせよ、通常の引越しで持ち出すものでなければわざわざ持ち出さないだろうし、通常持ち出すものは当然、居住する一家の「財産」なわけで。それで不埒と言われちゃ、滝川家だって困りますよねえ。まさに勝てば官軍、これでもかという居丈高。要するに、旧幕臣の屋敷は「差し押さえ」状態だったんですね。
でもそこで、用人の所為と言い逃れて、ついでに完璧に掃除までして引渡す滝川一家に、パパ譲り、充太郎のトレードマークでもある反骨精神を見ました。「さあどうだ、これで文句はあるまい、何か難癖付けられるもんなら付けてみやがれ!」みたいな。(夢見がちと笑わば笑え)
――以上です。意外と長くなりました。
(20070311)
■□■バーミンガムそのに: 「Chanceの灯明台硝子製造局」、「Chance之Chemical Work」
8月26日(西暦9月28日)の土曜日、朝10時に圭介は「Chanceの灯明台硝子製造局」を、28日の月曜日にはやはり朝10時から「Chance之Chemical
Work」を見学しています。どちらも同じ「チャンス」社です。
正式名称は、「Chance Brothers & Co.」(チャンス兄弟社)。「Chance Bros & Co.」とか「Chance
Brothers」、「Chances」と書いている資料もあります。
チャンス家はウェストミッドランド地方(イングランド中西部)で代々産業に携わってきた家系だそうです。ウースター州(Worcestershire)の兼業農家が祖で、19世紀にバーミンガムの西3〜4マイル(5〜6キロ)の郊外スメジック(Smethwick)で、大規模なガラス製造ビジネスを始めました。
創業者は、ロバート・ルーカス・チャンス(Robert Lucas Chance、ルーカス)。1824年、スメジックの運河沿いにあったブリティッシュ・クラウンガラス社(British
Crown-Glass Company)を買収し、スポンレーン(Spon
Lane)にチャンス社の基礎となる会社を設立したのです。19世紀末までに、この会社は全英で最も重要なガラス製造会社の一つに成長しました。
19世紀以前には小さな田舎町にすぎなかったスメジックは、1768〜69年にバーミンガム運河が近くまで開通するとともに開発が始まった地域です。18世紀後半には、バーミンガムから実業家や技師たちが移転し始め、1820年代後期に新たな運河が開通すると、その沿岸にどんどん工場ができました。1830年代に開発が急激に進み、1852年には鉄道が開通。人口は1871年に17,158人を記録、1891年には36,170人、1901年には54,539人と、あっというまにバーミンガム大都市圏の工業地域に発展していきます。
ちなみに、上記地図でスメジックの北にあるWest Bromwichは、サッカー日本代表の稲本選手の所属しているウェストブロミッチがある街です。
閑話休題。
ルーカスが買収したブリティッシュ・クラウンガラス社は、吹きガラス製法による窓ガラス(吹いて作ったガラスを伸ばしてつくる、当時の一般的な窓ガラス)を製造していた会社でした。
彼は、法廷弁護士をしていた弟ヘンリーに充てた手紙の中で、買収した会社に絶大な期待を寄せていることを記しています。「私にはこの会社を成功させることができると考えるに足る根拠があるし、事業家としての経験を発揮するよい機会でもある。」
買収当時の敷地は、スポンレーンからオールドベリ(Oldbury)までの10エーカー(約4万m2)とブレイクリーホール農場(Blakeley
Hall Farm)の一部で、運河とバーミンガムロード(Birmingham Road)に挟まれた区域でした。
運河沿いというロケーションを、ルーカスは最大限に活用します。道路がまだでこぼこだった当時、ガラスのような壊れやすい製品を素早く安全に輸送するには、船という運送手段は最適でした。当初購入したのは工場ひとつだけでしたが、早くも1828年に2つめの工場を建設。それから輸出貿易の需要に応えるため、第3工場を建設しました。
けれど1830年代初頭、ガラス貿易に不況が訪れると、会社は経営難に陥ってしまいます。これを助けたのが、バーミンガムのグレートチャールズ通り(Great
Charles Street)で鉄材販売事業で成功していた弟のウィリアムとジョージでした。2人は兄の工場が生き残るための資本を提供。1832年にはウィリアムが経営に加わり、社名も「チャンス兄弟社」と変更しました。
この年、チャンス社はフランス人発明家でショワジ=ル=ロワ(Choisy-le-Roi、パリ南部セーヌ河畔の町)のガラス工場長だったジョルジュ・ボンタン(Georges
Bontemps)の協力を得て、英国では初となる板ガラス製法を自社工場に導入します。ボンタンは板ガラスの製造をいち早く開始した人物で、チャンス社のためにフランス人とベルギー人の技師たちを手配しました。こうして1832年8月、英国内の同業他社に何年も先駆けて、当時「フランス工場」と呼ばれていたチャンス社の第2工場で、板ガラスの生産が始まったのです。
ちなみに、これらの外国人技師たちがこの地方への外国人移住者の魁となり、1837年にはベルギー通り(Belgium Street)という通りまでできたそうです。ちなみのちなみに、1950年代になるとインド系、パキスタン系、ジャマイカ系などの移民が増加したもよう。
1834年、より上質でよりサイズの大きな窓ガラスを造ることができる改良型シリンダーシート工法をドイツから輸入すると、数年もたたずしてチャンス社の板ガラスは世界最高の品質を誇るまでになります。ジョゼフ・パクストン(Sir.
Joseph Paxton)が設計し1851年のロンドン万博の主会場となった有名なクリスタルパレス(Crystal
Palace)を始め、英国議会(House of Parliament)の窓ガラスや、ビッグベンの4面の白ガラス、米国ホワイトハウスの装飾窓など、チャンス製板ガラスは数々の名のある建物に使われました。
チャンス社の主要製品には他に、ステンドグラスやランプの飾り笠、顕微鏡のスライドガラス、絵模様付きのガラス食器や眼鏡、灯台のランプ用の高質光学ガラスなどがありました。また、初めて光学レンズで紫外線を遮断することに成功したのも同社でした。
チャンス社は、色ガラス(着色ガラス、原料ガラスに着色剤を混ぜて色付けする)の製造もしていました。前述のボンタンは窓絵(ウィンドウ・ペインティング)や装飾ガラスの製造にも詳しく、チャンス社は1848年、2月革命を避けて英国に移住してきた彼と、自社の色ガラス・装飾ガラス製造部門の統括責任者として年俸500ポンドで契約します。ボンタンは色ガラス製造にエナメル彩(低融点の色ガラスを砕いて顔料をつくり、これを油や松脂で練ってガラス表面に彩画、焼きつける)、アシッド(ガラス表面を酸で腐食させて図案を彫り出す)、リトグラフなど様々な技法を応用しました。
これらの色ガラスは、一般の家にも使われてはいましたが、最大の顧客は教会でした。そのため1864年、ジョン・V・チャンス(John V.
Chance)は、「近代的な窓ガラス製造技術を誇るのではなく、教会建築で第一級との評判を得るよう努力しなければならない」との主張を展開します。しかしアレクサンダー・チャンス(Alexander
Chance)は、違う意見でした。彼は装飾部門の現状について報告書を作り、教会関連の仕事はクレイトン・ベル(Clayton &
Bell、ロンドン)やハードマン(Hardman、バーミンガム)、ウェイルズ(Wailes、ニューカッスル)など、先んじているライバル会社が安いステンドグラスを提供している以上、決してビジネスとして成功はしないと主張。そのうえで、利潤の見込める近代的な窓ガラス製造に事業を集中することを提唱し、その後の会社の方向性を定めたのだそうです。
チャンス社は、6代にわたって家族経営でした。ロバートの甥のジェームズ・テミンス・チャンス(Sir.
James Timmins Chance)は、創意工夫に富んだ人物で、チャンス社が一躍トップ企業に踊り出たのには彼の功績が大きかったようです。彼は灯台用ガラスの開発の功で、1900年に準男爵に叙せられています。
総じてチャンス家の男たちは技術が高いだけでなく、商才に長け、金融面や会社経営においても成功したらしい。彼らは現実的で手強いビジネスマンとして知られていましたが、同時に公的な役職を務めたり、工場内に学校を開設するなどの福祉サービスも率先的に提供したのですって。火事が多発したことから、1848年には自社工場専用の消防隊を設立したりもしています。
●化学工場
板ガラスを始め、ガラスの製造には硫酸ソーダなど色々な化学薬品が必要となります。社外取引先が提供するこれらの化学薬品に満足できなかったチャンス社は、自社で開発する道を選びました。手始めに、ガラス工場の敷地内に硫酸用の試験槽と硫黄、酸、白灰を精製するためのソルトケーキ加熱炉を建設しました。(ソルトケーキ:硫酸ナトリウムの別名で、グラウバー塩ともいう。ガラス製造工程では、ソーダ灰の代わりに、粉炭と無水硫酸ナトリウムを混ぜたものを使うことがある)
1835年には、オールドベリに土地を買い、専門の化学工場を建てます。オールドベリ化学工場(Oldbury Chemical Works)はやがて、ミッドランド地方最大の化学工場に成長し、地元では「酸工場(Acid
Works)」の名で通っていました。チャンス社がこの工場で雇ったリチャード・フィリップス(Richard Phillips)は、黄鉄鉱を酸化させてつくった硫酸鉄と食塩を混ぜて加熱するという硫酸ソーダの新しい生成法を編み出し、チャンス社は1835年6月4日にこの製法で特許を取得しています。また、硫酸ソーダの生成過程で生じた廃棄物から石灰と硫黄を回収する方法を他社に先駆けて開発したのも、同社なのだとか。
●圭介訪問時の様子
圭介が工場を訪問した1872年当時、チャンス社がどのような状態だったかは、『白い崖の国をたずねて』(宮永孝)に詳しいです。
当時の社長は、「ジェイムズ・T・チャンス」とあるので、灯台用ガラスを開発したジェームズ・テミンス・チャンスだったと考えてよいでしょう。けっこうゴツイ人です…。この人と圭介が並んだ様子を思い浮かべると、いやその、ごにょごにょ。圭介訪問の2ヶ月後、木戸孝允が同社を訪れた際には、このチャンス社長と、「灯台部の長」である「ジェイムズ・ケンウォード」、技師の「ホプキンソン博士」の3人が案内をしてくれたそうです。
『米欧回覧実記(二)』(久米邦武、岩波文庫)には、その時の様子として、「場内広大にて、総て50エーカー(我20町歩)の地を占め、日に職工2500人を役す、場内に学校を設け、男女子千余人をいれ、小学普通の学を授く、幼なるは5、6歳の嬰孩に及ふ、男女室を異にす、此日まつ校に入りて、寮房を歴回するに、童男女皆祝声をなして送る」とあります。チャンス社長みずから工場内を案内して製造過程を説明してくれたのだけれども、光学関係の説明は奥が深すぎて、通訳も困ってしまった、そうな。
圭介も日記にプリズムの仕組みを嬉々として(というふうに見える…)書き留めていますが、何か目をキラキラさせてメモってる様子が目に浮かびます。
そんなチャンス社の様子ですが、古写真や絵の資料が数多く残されています。驚いたことに、それを見るとただ運河に沿って建てられてただけじゃなく、工場敷地内を鉄道が走ってます。この鉄道は、今も同じ場所で現役です。それに建物自体も、廃墟と化してはいますが現存するようですね…。運河ツアーで工場のレンガ壁を横目に通るコースがあったり、社会科見学で地元の子が中を見せてもらったりしているようです。行ってみたい!(けど幽霊出そう…笑。←幽霊は英国名物)
>20世紀初頭のチャンス社の工場全容
(全部で8ページ、右側の写真をクリックすると大きくなります)
>現在の様子
ちなみに、「チャンス社」も今でも現役です。スメジックの工場は1981年に閉鎖されましたが、本社機能は1946年に支社として作ったウースター州マルバーン(Malvern)に移転しました。スメジック工場の閉鎖理由は、大株主となっていた後発のピルキントン(Pilkington)社に、主要製品の板ガラス製造権をごっそり持っていかれてしまったため。移転後は、社名こそ変わらないものの、ピルキントンの子会社となってしまいました。1992年、ピルキントンの合理化の際に再び独立して、現在は「Chance Glass Limited」の名でガラス製造を続けています。
>>Source: Revolutionary Players UK, and Chance Glass Ltd.
(20060721)
■□■バーミンガムそのいち: 移動ルートと「Queen Hotel」
圭介英国足跡ツアー、第2弾。
1872年8月24日(西暦9月26日)、外債発行交渉のため訪れていた英国で、各地の産業視察に出発した圭介の足跡を、『われ徒死せず』に引用されている圭介の日記を頼りに、英国系サイトを渡り歩いて調べてみました。
まず、出発の日の8月24日。
雨のロンドン・国鉄ユーストン(Euston)駅を12時に出て、汽車でワットフォード(Watford)、ラグビー(Rugby)を経てバーミンガム到着が午後3時。…現在なら、1時間半で着いちゃう距離なのですが。経由駅から見て、現在の
Virgin West Coast Line(西海岸本線)が移動ルートと見て間違いないでしょう。(ロンドンからバーミンガム、リバプールと経てグラスゴーまで行く路線で、今でも最も混む主要路線です)
バーミンガムで列車が到着したのは、ニューストリート(New Street)駅。1966年の写真ですが、外観はこんなかんじです。今でもこのニューストリート駅が、ロンドン方面からの列車の玄関口です。
宿泊先の「Queen Hotel」は、英国ではありふれた名前すぎて、全く期待せず一応検索をかけてみたところ、ありました、関係記事。→こちら
正式名称は、「Queen's Hotel」。ニューストリート駅の目の前に、ほぼ駅に直結する形で建てられていたそうです。ウィリアム・リボック(William
Livock)氏によって1854年に建てられたイタリア風(Italianate style)建築様式のホテルで、鉄道利用客を主な顧客として営業していた、とあります。ただし、この資料だと1864年に廃業…となってます、ね…(あれ??)(←でも、写真(ホテルのエレベーター)が撮られたのは1966年。単純なタイプミスか?それとも建物が建て替えられたという意味か?)
ともかく、仮に圭介の泊まったのがこのホテルなのだとしたら、このエレベーターに圭介も乗ったってことになりますねvv
この夜、圭介は「Concertに至る」と書き残しています。コンサートを聞きに行ったのか、「Concert」という場所に行ったのかは不明。
ちなみに当時、バーミンガムでコンサートホールとして有名だったのは、コールシル通り(Coleshill Street)88〜90番地にあった「Holder's
Grand Concert Rooms」(後にBirmingham Concert Hallと改名)でした。またその他、たくさんの劇場があったので、オペラとかミュージカルならそのどれかだったという可能性もあるかも。>参照
翌25日は何をしていたのか不明ですが、26日(土曜)は朝10時から「Chanceの灯明台硝子製造局」を見学しています。
「バーミンガムのガラス工場のチャンス」という条件で検索したら、簡単に見つかりました。超の付く有名企業だったみたいです。長くなるので、これは次回に回します。
(20060720)