本日の鳥飯。




■□■文久2年閏8月20日付(?) 大鳥圭介→桂川主税(後の藤沢志摩守)書簡

「 日々鬱陶しき天気に御座候ところ、爾来いよいよ御清福恐祝し奉り候。
 扨(さて)過日は昇堂、色々御盛饌(せいせん)拝受、相替らず大乱酔、失敬御海恕成さるべく候。其の後も御礼かたがた参上仕るべく候ところ、彼是多事相過ごし居申し候。
 然れば、大英吉利字書ウエブスタの著述、千八百六十一年の上梓、兼ねて小生懇望致し居り申し候に付き、先頃より横浜知己の者へ頼み遣わし置き候ところ、昨日右大字書齎し来たり申し候。然るところ右本は既に四五日前小生弊藩方より借り受け申し候間、先ず唯今のところは相求め申さず候とも用足り申し候に付き、他方へ相譲りたしと相考え居り申し候。就いては、若し尊兄御望みも御座候わばと存じ候間、序で乍ら窺い奉り候。尤も代価は十五両以下にては商人不承知の由申し居り候間、其の思召にて、万一御用も御座候わば、明日中に御左右(おそう)仰せ聞けられたく候。右書は兼ねて御承知もあらせらるべく、誠に大全の新書、殊に禽獣の形状までも描写しこれあり、結構の物と存じ奉り候間申上げ候事に御座候。
○兼ねて相願い候御揮毫、最早御染なされ下され候や。誠に御多忙中御促し申し候は、いかにも恐縮の至りに御座候えども、既に御出来(しゅったい)に候えば、此の者へ御渡し下されたく、若し又未だ御認めこれなくば、何日に頂戴致すべきや、鳥渡(ちょっと)御左右下されたく候。何分宜しく御添示願い奉り候。草々敬白

 後八月念    圭介拝
橘堂老兄 」

文章はすべて、『勝海舟の参謀 藤沢志摩守』(安西愈)に合わせてあります。実物写真も一部載っているのですが、小さいのと達筆すぎるため私には読めません。よって読下しの間違いがないとは言い切れませんが。

江戸開城時の陸軍副総裁、藤沢志摩守。調べてみたら面白い人物でした。
もとは奥医師で蘭学者の桂川家の三男で、甫悦国謙、のち主税と名乗った。父・甫賢は本草学に秀で、ズーフから「ボタニクス」という名を与えられ、高島秋帆に砲術弟子入りを希望したほどの開明派。主税も幼少から写生に秀で、動植物や風景画、西洋画の模写をよく描いたといいます。十代後半に江川の縄武館に学び、砲術を始め西洋軍学に親しんだもよう。
桂川家には洋学者やそのタマゴが連日のように屯し、宇都宮三郎や福沢諭吉が主税を「親友」と称した記録が残っているそうです。

↑の書簡の日付は、写真で確認できないので安西氏の記述を信じるほかありませんが、「後八月」つまり閏8月があるのは幕末では文久2年だけなので、年号は確かです。
圭介数え31歳、一橋門外の洋書調所(この年5月に蕃書調所から改名・移転)に出仕して、翻訳業にせっせと励んでいた頃(身分は徳島藩士・鉄砲方附蘭書翻訳方出役)。家族はみちさんと長女のひなちゃん、みちさんのお腹の中に次女のゆきちゃんがいました。(ちなみに6月に釜さんがオランダに留学し、8月には生麦事件勃発。閏8月1日に松平容保が京都守護職に任命されています)
藤沢志摩守(当時は桂川主税)は3つ年下の28歳(土方と同い年)。22歳で講武所砲術教授方出役、この年4月、海陸御備向軍制取調御用を仰せ付けられたばかりです。圭介との接点はやはり洋学、それも洋式兵学だったのでしょうが、出会いのきっかけは江川か洋書調所か。
年齢は圭介のほうが上ながら、生まれつきの身分と立場から、圭介がややへりくだって「老兄」と呼びかけているのでしょう(老兄=年上の友人を敬って呼ぶ語)。ただ、同じく文中で使われている「尊兄」は、対等の男子間で用いる敬称なので、少なくとも数回以上会ったことのある仲ではないかと思います。

冒頭で、「先日訪問した折には御馳走様でした」と言っているので、桂川家に圭介が出入りしていたことが窺われます。「大乱酔」したそうなので、くだけた集まりだったのでしょう。しかし「相変わらず」って…圭介、前にもやらかしたんか(爆)
安西氏はこれについて、「主税の方だって酔わずに見ていたはずがない」とあっさりばっさり。ぐだぐだな宴会の光景が思い浮かびます…。(桂川家の男は酒に強かったらしい。圭介も呑兵衛だし、呑み比べとかしてそう。『学海日録』とかもそうだけど、当時のインテリ層ってよく会合にかこつけて大酒かっくらって酔っ払って翌日二日酔いになってる印象が…;;)
手紙の用件は、「以前から人伝に探していた1861年版ウェブスター英語辞典が手に入ったが、自分の手元には4、5日前に徳島藩から借りた一冊がすでにあるので、今すぐには必要なくなった。よかったら買いませんか。ただし商人の都合もあるので、明日中に返事を下さい」というものです。値段は15両するが、動物の解説図もしっかりしている最新版なので是非、と勧めています。主税の画才は当時すでに有名だったので、特に挿絵について言及したと思われます。
追伸で、「前に頼んだ揮毫はできているか、できていたら手紙の使いに渡して欲しい、まだの場合はいつ頃になるか教えてほしい」と言っています。

さて、安西氏のツッコミ。(前掲書から抜粋ママ)
「圭介は金の工面がつかず、口実を設けて友に肩代りをしてもらいたいらしい。勧めるのに鳥獣図の精妙を言って、主税の興味をそそろうとしているが、たとえ欲しかったとしても、十五両では閉口したであろう。」
…………え、この文面ってそういう意味なの!?(轟沈)
確かに徳島藩が英語の辞書を持ってて貸してくれたというよりは、真実味があるけど…「しみったれ」だし。でも根拠は一体どこに…!!(震笑)(凄い圭介らしい…根拠なくとんでもない紹介がされてるあたりが…)

で、圭介のこの手紙がなぜ、わざわざ志摩守の伝記本に紹介されているかというと、この日(文久2年閏8月20日)は彼が慌しく1500石の旗本藤沢家の「急養子」になった日だからなのでした。(この間の悪さっぷりも素晴らしく圭介らしい…)

ところで藤沢家の当主となった主税(次謙と改名)は、この年12月28日に歩兵頭に任ぜられ、軍人畑を突き進みます。鳥羽伏見の後は、勝海舟を助けて恭順を主張、開城後は駿府へ移住しました。
ただ、驚いたことに、志摩守と圭介の関わりは、明治になっても切れていませんでした。これには本当に驚いた。
…詳しくはまた次回、歩兵頭になって以降の志摩守の経歴と一緒にご紹介します。

(20070526)