●2005年春会津紀行 - 「会津のど真ん中で鳥歳と叫べ!」
【二日目: 3月20日】
就寝が遅かったにも拘らず、目覚ましの一時間前(6時ジャスト)にぱちっと目が覚めてしまった葛生さん。旅先では決して寝坊をしないというご都合主義な癖は三十路が近づいても健在です。しかし朝風呂入りたいな〜と思って半身を起こした瞬間に頭を襲った激痛…。いえ、二日酔じゃなくて単なる寝不足なんですが。3秒くらい迷って、あっさりもいちど布団の住人と化しました。(早っ)
朝食を8時にお願いしていたので、予定どおりの7時に(今度こそ)起きて、のそのそと支度をします。窓を開ければ、透徹した山の朝の空気が清々しい。…なぞと心地よくいられたのも束の間で、食事を終えて部屋に戻り、すぐにチェックアウトできる状態にしてから本日の予定を立てはじめる頃には背筋がどことなく薄ら寒く感じはじめ、地図とバスの時刻表を片手に一生懸命ルートを考えてくださっている柴宮さんを尻目に、炬燵に肩まで潜って二度寝を決めこんだ図々しさはいったい(汗)←前日が初対面。
結局、今回は足場も悪いし寒いしということで天寧寺はお預けにして、とにかく彼岸獅子を見て鶴ヶ城を見学して、時間が余ったら次に何をするか考えよう、ということになりました。(というか総て柴宮さんに考えていただいたことで私はただ待ってただけなんですが;;)
戦国史で同人をしていた名残で、城というとどうしても、郭の配置だとか掘割だとか土塁や石積みだとかに目が行く(んでもって再建された建物とかはあまり気にしない)葛生さんなのですが、鶴ヶ城の第一印象は、思ったより小さいなというものでした。見取り図で見たかんじからだと、実際の大手門(正門)の位置が妙に不自然なかんじがしていたのですが、もともと戦国時代の平山城として建てられたときと、大手門の位置が変わってるんですね。寛永年間に大改修をしていて、そのときに城北側の馬出しを出丸の形状にし、元は東にあった大手門を北に移したのだそうです。この北出丸は、侵入してきた敵を東西南の三方から攻めることができるので、「みなごろし丸」とも呼ばれていたとか…。大手門移築の理由は解説されてませんでしたが、察するに、城の北側が城下町として大きく発展していたため、そちらを表とみなしたのではないかと。
北出丸から本丸へ続く道を椿坂というのですが、ここで彼岸獅子の恰好をしたおじさんたちに出くわしました。弥が上にも高まる気分。しかし「おお、山川がいる!」という感想はちょっと違います葛生さん。山川と彼岸獅子の話って、一歩間違うと、「山川が彼岸獅子の扮装をして入城した」と勘違いされかねないけど、実際には「彼岸獅子を先頭に」入城したんですよね(笑)
椿坂を登りきったところが正門である太鼓門跡(現在は門はない)で、そこに管理事務所兼案内所兼休憩所があります。ここで暫く時間を潰すことにしたのですが、彼岸獅子のおじさんたちも一緒だったので、振り向けばそこに山川(誤)状態で非常にドキドキしました。だってね、関係者のおじさんおばさんたち、家族も交えてそこで寛いでらっしゃるんですが、喋る言葉がしっかり訛っててね! それを聞きながら、ああきっと圭介とか土方さんなんかもこんなかんじで聞いてたんだろうなあと思うわけですよ! 東北弁の山川大蔵ってちょっと萌えません??? ちょうど前日に柴宮さんと、東軍の連携や意思疎通の拙さの影には絶対に方言の問題もあったに違いない、という話をしていたもので、頭の中が沸き立つのなんのって! つい脳裡で、軍議の席で会津人同士が打ち合わせをはじめてしまい、それがあまりに早口で何を言ってるのか理解できない圭介や旧幕の人がこう、ぽつねんと居た堪れないかんじで座ってる光景とか思い浮かべてしまったりして、実に妙に気恥ずかしかった一時でございました。
彼岸獅子見物のお客さんは地元民も含め、この寒空に思ったより大勢の出足でした。正面は一眼レフを構えた人たちに占拠されていたので、横面に陣取ります。待つほどの事もなく、冬(あれは春じゃないよ冬だよ;;)の風に響きわたるお囃子の音。何と素晴らしい演出、山川の会津入城の再現か…! 感動とともに振りかえった我々が見たものは、祭囃子を背景に、ごく気の抜けた様子でぶらぶら普通に歩いてくる彼岸獅子さんたちでした…。をい…。
しかしそんな彼岸獅子さんたちも、演舞が始まれば一転、きびきびした動きで我々を魅了します。この小松の彼岸獅子は、我々が通常「獅子舞」と聞いて思い浮かべるものとはだいぶ様相が異なっていて、かちかち音を立てて威嚇する獅子頭もなければ、唐草模様の風呂敷でできた胴体もありません(唐獅子というやつですね)。舞手は三人、獅子頭は鳥の羽で飾られていて、夫々がすっぽり頭から被り、腰鼓をつけ、箸のようなもの(…)を持って踊ります。三匹の獅子はそれぞれ雄獅子、雌獅子、太夫獅子で、要するに親子らしいんですが(実際にオヤジ、カカア、コドモと呼ぶ地方もあるらしい…)、こういうのを一人立獅子舞、または風流獅子舞といって、関東〜東北に分布している獅子舞の形態だそうです。
戊辰戦争時の山川の提案は、作戦の失敗=演者の死を意味したため、隊長以外は独身の若者だけで組織することになり、11歳〜17歳の少年たちが選ばれたとか。家族や村人と水杯を酌み交わしての作戦開始でしたが、彼らはその後皆無事に帰村したので、全員名前も判っています。つまりただの伝説じゃないということ。
…という薀蓄はさておき。伝統芸能なんかは元々大好きなので、楽しかったです。正味20分、観賞用の演舞なので移動はなしでしたが、どちらにしろ進み方は相当ゆっくりだったんじゃないかと。演ってるほう(含山川)もじりじりしたろうけど、見てるほう(容保様とか梶原さんとか)もじりじりしたろうなあ。おかしかったのは、舞の型のひとつに子供がぼそりと「アイーンってしてる…」と呟いたこと。いや、確かにそんなふうな型があるんですが(笑)
演舞が終わると、またしても彼岸獅子さんたちは普通に歩き去っていきましたが、それを追いかけて記念写真を撮ってもらう人が続出しておりました。ちょっと心惹かれなかったというと嘘になりますが、山川(誤)と一緒に写真撮るなんてこっ恥ずかしくて、葛生さんは指を咥えてみてただけでした。←そういうオマエの思考こそがこっ恥ずかしいヨ;;
人の波が引くと、忘れていた寒さが一気に戻ってきまして、慌てて天守閣の中へ逃げこみます。ほっとしたのも束の間、再建された鶴ヶ城天守閣内部は、むしろ外より底冷えがするという罠。最上階の展望台まで行く頃には、あまりの冷えっぷりに泣きそうになってました。ううう。
一階で鶴ヶ城の歴史が紹介されてまして、葦名とか伊達とか蒲生とか上杉とか、元戦国同人にとっては懐かしい名前がずらりと。因みに、会津松平氏の開祖である保科正之は二代将軍秀忠の庶子で、信州高遠の保科氏に養子に行った人なのですが、この高遠の保科氏は、戦国時代に武田の三弾正として称えられた名将(保科正俊、槍弾正)の子孫だったりします。(←無駄知識)
二階は、会津の暮らしの紹介。食事と年中行事とか、民芸品とか、日新館とか、産業とか。当時の技術や用具の展示・解説は、文章書きにとっては有難いですな(どうしてすぐそっちへ思考が行くのか)。あとは藩主の居間が再現されてまして、でも靴を脱いで上がるのが面倒だったのと、一人では恥ずかしすぎたので(葛生さんがのんびりしすぎていたので柴宮さんには先に行かれてしまったのでした…)、横目で見て通り過ぎました。…まあそういうのにはしゃぐ齢でもないし(笑)
三階は、いよいよ幕末。籠城戦生存者の証言は非常に生々しく痛々しいです。粗筋を知っている話でも食い入るように読んでしまいます。…このあたりまで来ると、本気で寒さが身に凍みて、指先なんかかじかんできてましたので、余計に寒々しいというか恐ろしいというか。
四階は展示がなかったのですたこら流して(だってもう寒くて寒くて…)、五階すなわち最上階へ。吹き晒しの展望台になっていて、三割増しくらいで寒かったですが(そればっかりだな)、でも四方の眺望には一瞬寒さを忘れて見惚れました。
いちばん最初に確認したのは、如来堂。山口こと斎藤一率いる一隊が、どういう経緯で本隊を離れて如来堂に布陣していたのか、彼等が本隊から離脱したのはいつなのか。よく小説で出てくる土方と山口の見解の不一致、というのを私は信用できずにおりまして、というのも南柯紀行を信用するなら、土方は援軍を呼びに行っただけで、仙台に先行したわけじゃないのですよね。…というところを語り始めると止まらないのでここではやめておきますが。
如来堂から、右の方へ、おそらく塩川・喜多方方面と思われるあたりを眺め、更にはその向こう、大塩・檜原に思いを馳せ(このへんは磐梯山の向こう側になる)、更に更にそのあたりの山中を彷徨した大鳥さんの様子を妄想し、昨日行った飯盛山へ視線を映し。そして、気になっていた小田山との距離を確認する。…思っていたより距離があって吃驚しました。幕末の大砲の性能って結構よかったんですね(戦国時代と比較すること事態が間違ってますって!)
ひととおり眺めて満足した後は、とにかく寒さに負けてとっとと階下へ避難。土産物売り場で暫時暖をとり、それから南走長屋へ向かいます。こちらは新しく再建されたのだそうで、靴を脱いで上がるのですが…足元が冷たいの何のって…っ!板間に緋毛氈が敷かれているのですが、すっかり冷え切って氷のようです。更にところどころ(主に展示の前)にホットカーペットが敷かれていたので、それらを飛び石よろしく小走りに渡り歩くという、根性なしなことをやっておりました。そんなことじゃ山川に叱られちゃうぞ。あ、ちなみにこの走長屋内の展示は主に野口英世だったのですが、突き当たりの部分だけ何故か新撰組でした(笑)
しかしですね、走長屋のいちばんの見所は、何といっても入ってすぐのところにあった「幕末当時の人の平均身長」人形です…!(鼻息荒く) 158センチ、と書いてあるのですが、並んでみると、ちょうど私の肩より少し高いくらい。……暫しの沈黙の後、
「じゃあきっと圭介はちょうど私の肩くらいですね…!」
「きゃーっ!可愛い――っ!!」
「やーん、どうしよう――っっ!!」
……むしろおまえらが「どうしよう」だよ、というほど盛り上がってしまいました…。(虚ろな目)
それぞれお土産を買い求めまして、中途半端に時間が余ってしまったので、どないしよう?と管理事務所兼案内所兼休憩所にて甘酒を啜りつつ、パンフレットを捲ります。このままゆっくりお昼にしてもいいよねぇとやる気のない会話を交わした矢先。
「柴宮さん、…ここに、『無料の利き酒コーナー』という言葉が…」
「なにぃ…!?」
――と、いうわけで、酒呑みふたり嬉々として『会津酒造歴史館』へ向かいました。(笑) 鶴ヶ城のすぐ目の前にあるのですが、そこまで行く間に、会津藩家老だった西郷頼母邸跡の碑がありました(西郷さん家は一家の婦女子全員自刃したことで有名で、邸宅は『会津武家屋敷』に復元されている)。向いは内藤さんという同じく家老の屋敷跡で、城の(新)大手にあたるこのあたりに重臣の屋敷が連なっていた様子が窺えます。
酒造歴史館は、宮泉という日本酒の一番蔵を公開したもので、仕込みの時期には一部閉館となるそうです。小さな博物館なのでちゃちゃっと見て回れましたが、二階に御宸翰の複写が飾ってあったのはなぜだろう…。いろいろな杯とか、酒にまつわる逸話とかが面白かったです。利き酒もおいしかったヨ!(あ、でも葛生さんはやっぱり日本酒より焼酎のほうが呑みやすかったデス。度数じゃないんだな、つまり。)
会津若松駅まで歩く間に、適当なお店で遅めのお昼を食し(トリ〜!と思って鳥釜めしを注文したら、「鳥釜なんですか」と柴宮さんにツッコまれてちょっと凹んだ…)、再び磐越西線に乗って郡山へ。雪の磐梯山〜石莚を眺めしみじみと、「あのあたりを大鳥さんが右往左往していたのだなあ」と名残を惜しみ……たかった、のに、凄まじい眠気に襲われ、ぐらぐらする頭を必死で支えて血走った目で車窓を眺めるというよく判らない展開に。きっと命懸けっぽい顔つきを晒していたことと思われます(恥)←そのころ柴宮さんはぐっすり眠っておられ…あとで恥ずかしがっておいででしたが、いえいえそっちのほうがよっぽど素直であるべき姿ですよ…。
郡山からの新幹線は、最初空席がなかったのでデッキに立っていたのですが、居ても立ってもいられずつい富士太郎(PDF)を取り出して昨夜の続き(=ネタ作成)に興じる葛生さんを、柴宮さんはとっても生温かい優しい視線で見守ってくださいました☆ 結局、途中で座席についてもそのまま東京駅までネタ打ち込みを続けてたのですが……すみませんでした本当に阿呆な同行者で…!(^ ^;)
そんなこんなで無事東京到着。たった一泊とは思えない非常に濃く実り多い旅路でした。柴宮さん、どうも有難うございました!
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